国際線はフランスやイタリア、ギリシャをはじめとする大西洋横断路線、およびヨーロッパ路線とエジプトやレバノンなどの中東路線がメインであったが、その後徐々に路線網を拡張し、最盛期には東アジアや東南アジア、沖縄を経由した世界一周路線を、ノースウエスト航空の路線とつなぎ合わせて運航するまでになった。
また、ロンドン・ヒースロー国際空港やパリ・オルリー空港(その後シャルル・ド・ゴール国際空港)を地域ハブとし、ヨーロッパや中東への接続便を運航した。
なお、日本路線はパンアメリカン航空とノースウエスト航空が長年独占し続けていたこともあり、アメリカ占領当時の沖縄に乗り入れていたのみであったが、米軍チャーター等で横田基地や板付基地にたびたび飛来していた。また、1989年10月、1992年1月にはロナルド・レーガン元大統領やジョージ・H・W・ブッシュ大統領訪日の際の随行機として大阪国際空港にも飛来した。 映画製作者としても有名であったヒューズの人脈から、ハリウッドスター御用達航空会社としても知られており、キャサリン・ヘプバーンやフランク・シナトラ、ハンフリー・ボガートやエヴァ・ガードナーなど多くの映画スターが頻繁に移動に利用しただけでなく、1940年代から1960年代にかけて多くの映画やレコードのジャケットに同社の飛行機が登場している(フランク・シナトラのアルバム「カム・フライ・ウィズ・ミー」のジャケットは特に有名)。 さらに、1948年にヒューズが買収した映画会社「RKO」の新作映画の試写会を機内で行うなど、ヒューズグループ傘下にあることをマーケティングに活用した。 また、1950年代後半から1960年代後半にかけては、ヒューズの地元であるカリフォルニア州南部にオープンした遊園地「ディズニーランド」の公式スポンサーとなった その後、経営方針をめぐりヒューズ(この頃チャールズ・ティリングハスト
ハリウッドスター御用達
ヒューズとの決別
この際ヒューズとTWAは裁判でも争ったが、裁判所はヒューズに有利な判決を下したため、結果的にTWAは100万ドル以上の多額の裁判費用をヒューズに払うことになった。
最大のスポンサーでもあったものの、最大の足かせでもあったヒューズが去ったことで経営方針が変わり、1967年には、世界最大級のホテルチェーンであるヒルトン・インターナショナルを買収するなど、順調な業績を元に事業の多角化を進めた。
さらに1970年代には、最新鋭のロッキード L1011 トライスター型機をイースタン航空やデルタ航空などの他の大手航空会社とともに導入し、国内幹線や短中距離国際線に投入したほか、ボーイング747型機や同型機の超長距離型であるボーイング747-SPの導入などを通じて積極的な国際線網の展開を進めた。
しかし、1970年代後半になると日本航空やエールフランス航空、KLMオランダ航空やルフトハンザドイツ航空などとの外国航空会社との競合激化などにより次第に業績が悪化し、経営が苦しくなったところで規制緩和の大波を受けることになった。 1978年に、当時のジミー・カーター政権によってもたらされたアメリカ国内航空業界の規制緩和(ディレギュレーション)後、国内外での厳しい価格競争により、既に業績が悪化しつつあったTWAは大打撃を受けた。その結果、破談したもののパン・アメリカン航空と合併交渉も行った。加えて1985年には、テロの標的ともなり、トランス・ワールド航空847便テロ事件が発生した。 その後、1980年代中盤にかけては、何度かカール・アイカーンなどの投資家による企業買収によって経営者が代わるなどの異変はあったものの、空の黄金時代をともに謳歌したパンアメリカン航空やブラニフ航空、イースタン航空などの大手航空会社が、厳しい競争に敗れ次々に破産や吸収合併により消えていく中、TWAはローマやアテネなどのヨーロッパや、カイロやジェッダなどの中東への国際線をはじめとする主要路線の売却や、拠点空港をミズーリ州セントルイスへ移転するなどして、大手航空会社としてからくも生き残っていた。 1990年代に入ると湾岸戦争による燃料費の高騰や一時的な航空旅客の減少や、アメリカ国内外における格安航空会社の台頭などから慢性的な経営不振に陥り、1992年と1995年には相次いでチャプター11の申請を行ったものの、なんとか運航は継続していた。1992年の再建計画によればTWAの負債総額17億ドルのうち約10億ドルが減額されることになっていた[1]。 破産申請こそ行ったものの、イメージ刷新を狙って1996年に新しい塗装を導入したほか、ボーイング777やボーイング717型機などの燃料効率の良い新型機の導入を進めた。 さらにセントルイスを新たな国際ハブとすべく、すでに就航していたセントルイス - パリ線に続いて、新たに導入したボーイング777によって1999年にセントルイス - 東京/成田線の就航を計画するなど、経営効率化とともに再び積極的な経営拡大を行うことで収益拡大を図った。 しかし、1996年7月17日に、ニューヨーク州のロングアイランド沖でパリ行き(正確には、シャルル・ドゴール国際空港経由ローマ行き)の800便のボーイング747型機が、燃料タンクの構造的欠陥がもとで爆発、空中分解して墜落し、230人の乗員・乗客全員が死亡する事故(トランス・ワールド航空800便墜落事故)が起きた。 この予想もしていなかった悲劇が起きたことで、セントルイスをハブ空港に新たに進んでいたトランス・ワールド航空の経営拡大路線は、この事故により中止を余儀なくされた。 その後、運航費用が高いボーイング747やロッキードL-1011、ボーイング727などの老朽機材の売却や、不採算路線の廃止や子会社の整理などの経営効率化を図ったものの、2001年にライバルの一つであるアメリカン航空に吸収合併されることが決まった。 吸収合併後もしばらくの間、多くの元トランス・ワールド航空の機材はそのままの塗装にアメリカン航空のロゴを入れたり、逆にアメリカン航空の銀色のペイントに「Trans World」のブランドロゴが入ったままで運航していたが、まもなくその様な機材も姿を消し、トランス・ワールド航空は完全に終焉を迎えた。 トランス・ワールド航空のIATAコードだったTWは現在、韓国の航空会社であるティーウェイ航空が使用している。 その後アメリカン航空は、ウェブサイトの統合、各空港の施設のロゴの差し替え、ボーイング717型機のデルタ航空への売却を進めたほか、経営合理化の一環として既存の最大のハブ空港であるシカゴにほど近いセントルイス国際空港を自社のハブ空港から外すなど、トランス・ワールド航空の遺産は姿を消していった。 しかし、全盛期のトランス・ワールド航空がボーイング707などの大型ジェット機の就航に対応すべく、フィンランド生まれの建築家のエーロ・サーリネンに設計させたニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港のトランス・ワールド航空専用ターミナル(ターミナル5)は、そのデザインの美しさから現在に至るまで歴史的建造物として高い評価を受け続けている。
規制緩和による経営危機
経営効率化と再拡大
800便墜落事故
消滅
遺産
ターミナルジョン・F・ケネディ国際空港第5ターミナルだった「TWA Hotel」
Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef