歴史的ハンガリー(カルパチア盆地)東部、現在のルーマニア領トランシルヴァニア地方を中心とする地域に1571年から1711年まで存在し、歴史的には基本的にドイツ人のハプスブルク家が支配する王領ハンガリー(名目上のハンガリー王国)に対して実質的なハンガリーの継承国家と見なされている。1437年9月16日にカーポルナ町(チチョーカーポルナ村
ハンガリー語: Csicsokapolna [?t??it??o??k???poln?]、カパルナ村 ルーマニア語: C?palna [k??p?lna])でブダイ・ナジ・アンタル(Budai Nagy Antal [?bud?i ?n?? ??nt?l])の農民蜂起に対抗してトランシルヴァニアのハンガリー人と(ハンガリー人の一派である)セーケイ人とザクセン人(ハンガリー国王の招聘による入植者であるドイツ人たち)の三民族の貴族たちが「三民同盟」(kapolnai unio) を締結したことから、トランシルヴァニア公国の公民はこの三民族と見なされることとなった。1526年8月29日、オスマン帝国のスルタン・スレイマン1世はモハーチの戦いでハンガリー軍に対する決定的な勝利を手にした。ハンガリー王兼ボヘミア王ラヨシュ2世は配下の大勢の将兵と共に戦死、トランシルヴァニアの領主サポヤイ・ヤーノシュがハンガリー王に選出されたが、ハプスブルク家のフェルディナントがハンガリー王位を要求、両者の紛争が起きるとサポヤイはしばしばスレイマン1世に支援を要請した。
1540年サポヤイ没後、スレイマン1世はサポヤイの息子ヤーノシュ・ジグモンドの保護を口実とし、1541年にブダとハンガリー中央部を占領。こうしてハンガリーは王領ハンガリー、オスマン帝国、オスマン帝国の庇護下にある東ハンガリー王国の3国家に分断された。東ハンガリーは後にトランシルヴァニア公国を形成。オーストリアとオスマン帝国が同公国に対する影響力を競う時代が2世紀近くに渡って続く。トランシルヴァニアを支配するハンガリー人大貴族達は、2つの覇権国家の間で独立を維持するために、しばしば二枚舌外交の政治を行った。
トランシルヴァニアは当時、宗教に関してはローマ・カトリックが支配的な地域であったが、ルター派やカルヴァン派が布教目的で説教をすることも許されていた。1563年、イタリア人のジョルジョ・ビャンドラータが宮廷侍医に任じられたが、ビャンドラータの急進的な宗教観はヤーノシュ2世とカルヴァン派の司教ダーヴィド・フェレンツに強い影響を与え、ついに両者は反三位一体派(ユニテリアン)に改宗した。ダーヴィト・フェレンツはカルヴァン派の論客メーリウス・ユハース・ペーテル(hu)との公開討論に勝利した。この事件が引き金となり、1568年には「トゥルダの勅令」によって信仰表明の自由が公式に保障された。これはキリスト教ヨーロッパ世界で最初に信教の自由を保障した法令だったが、信仰の自由を認められたのはカトリック、ルター派、カルヴァン主義、ユニテリアン主義だけであり、東方正教の信仰は明白に禁じられていた。
トランシルヴァニア公国