トヨタF1
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またTTE以外では、関連会社のトムスと組んで、1985年から1992年までル・マン24時間レーススポーツカー世界選手権に参戦するなど幅広い活動を行っていた。一方F1に関しては何度かエンジン供給の話が噂に上がってはいたがいずれも幻となっていた。1980年代にロータスと技術提携した際、チーム・ロータスへ供給するターボエンジンを試作したことがあったが、チームの体制変動により計画は立ち消えとなっている[3]1991年(平成3年)にトムスがアラン・プロストジョン・バーナードらと共にF1参戦を試みた際にはエンジン供給を断っている(詳しくはプロスト・グランプリを参照)。

しかし90年代のWRCはエントラント・優勝車ともに日本車メーカーがほぼ独占状態であったためヨーロッパでの人気低下が著しく、加えて同じカテゴリで勝ち続けることへの不安の声も社内で大きくなっていた。そこで1997年にトヨタ自動車社長に就任した奥田碩は、ヨーロッパにおける新たなブランドイメージ作りとシェア拡大[4]、若者に対するアピールなどを目的として、1997年(平成9年)よりF1への転身の本格的な検討に入り、同年11月には社内決定。1999年(平成11年)1月21日、記者会見において奥田が「21世紀初頭からF1世界選手権に参戦する」ことを正式に表明した。

自動車メーカーがF1に新規参入する場合、有力なシャーシコンストラクターと組むか買収することが勝つための常識とされていたが、トヨタはエンジンから車体設計まで全て自社製で参戦することを選択した。当初は2001年(平成13年)より参戦を開始する予定だったが、F1のエンジンレギュレーション変更などの関係で準備が遅れ、結局2002年にデビューすることが決まった。

参戦表明した当時、エントリー可能なチーム数は12までという規定があり、トヨタは国際自動車連盟 (FIA) に4,800万ドル(当時の為替レートで約49億円[5])という巨額の供託金を納めて、残り1枠を仮押さえした[6]。2000年に参戦すれば供託金は全額返還、2001年ならば1,200万ドルが没収されるという仕組みだったが、トヨタはさらに1年遅れたため、4,800万ドル全額が没収された[5]
準備期間TS020(1999年仕様)TF101用RVX-01エンジン

TTEにはサーキットレースの経験がなかったため、F1への予行演習としてTS020を開発し、1998年・1999年のル・マン24時間レースに参戦した。なおTMG側がF1参戦のことを知らされたのは1998年ル・マンが終わってからであった[7]。1999年をもってWRCとル・マン参戦を終了し、2000年(平成12年)よりケルンのTMG施設を拡張してF1への準備が行われた。

F1チームの開発責任者には、ル・マンで2位を獲得したTS020のデザイナーであるアンドレ・デ・コルタンツが就任した。なおマクラーレンエイドリアン・ニューウェイにもオファーを出したが、勤務地がドイツであることを理由に断られている[8]ヤマハ発動機と資本提携および高回転エンジン開発に関する技術提携を行い、TS020をテストカーとしてTMGとポール・リカール・サーキットでの研究開発が始められた。

ドライバーはアラン・マクニッシュミカ・サロが起用された。マクニッシュは1999年のル・マンにトヨタチームで参戦したドライバーであり、またサロは日本語でのコミュニケーション能力があるなど、このドライバー・ラインナップはマシン開発を重視したものであった。

2001年(平成13年)にはテストカーTF101を発表し、各地のGPサーキットで精力的にテスト走行を続けた。しかし、結果が芳しくないことからコルタンツを解雇し、同年5月に本格参戦用マシンの開発責任者として、グスタフ・ブルナーミナルディから雇い入れた。ブルナーは幾多のチームを渡り歩いた末、ミナルディでは「全体を見回しやすい小規模なチームでの仕事が好ましい」と感じて、他チームからのオファーを断っていた。彼の突然の移籍は驚きをもって迎えられ、ミナルディの新オーナーとなったポール・ストッダートは、「金の力でブルナーを釣り上げていった」とトヨタに対して怒りを隠さなかった(ただしこのような引き抜きはF1では珍しいことではない)。
F1参戦
2002年2002年フランスGPTF102。ドライバーはマクニッシュ

ドライバーは、前年発表されたミカ・サロとアラン・マクニッシュに加えて、テストドライバーにステファン・サラザンを起用した(なお、サラザンは後に2012年FIA 世界耐久選手権(WEC)参戦にあわせて再びトヨタに加入した)。

参戦初年度、開幕戦オーストラリアGPで6位入賞を果たし、最初の目標をクリアした。その後もブラジルGPで6位入賞したがその後ポイントを上げることが出来ず、結局この2回の入賞に終わった。

自社風洞の完成が遅れていたため、TF102は当初より空力面のダウンフォース不足が明らかになっていた。レース途中でのリタイアも多く、下位チームのひとつであったミナルディよりも総合成績で敗れ、コンストラクターズランキング10位と実質最下位に終わり(アロウズがシーズン途中で撤退したため)F1の世界の厳しさを味わう1年となった。
2003年TF103のステアリングホイール

ドライバーを一新し、ベテランのオリビエ・パニスB・A・Rから加入し、チームメイトには2002年のCARTシリーズでトヨタエンジンユーザー初のチャンピオンとなったクリスチアーノ・ダ・マッタに変更した。

シーズン開始直後に、トヨタF1チーム社員によるフェラーリへのスパイ疑惑事件が発生した。


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