トヨタ自動車
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

トヨタグループ全体の2022年の販売台数は1,048万台と、3年連続で世界1位となった[6]。世界最大の自動車メーカーの1つであり、2021年時点の単独売上高は全世界の企業の中で世界9位[7]。2022年における企業ブランド力は全世界で6位[8]。売上高、時価総額、営業利益という点において日本最大の企業である。

東証プライム市場およびニューヨーク証券取引所(NYSE)上場企業であり、日経平均株価およびTOPIX Core30JPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ[9][10][11]
歴史
創業トヨタグループ創始者 豊田佐吉1936年に発売されたAA型乗用車(復元車)

豊田佐吉愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に創業した豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)内に、1933年(昭和8年)9月に開設された自動車部がトヨタ自動車の起源である。同部門は、「中京デトロイト化構想」の創案者で大同メタル工業創立者の川越庸一豊田喜一郎を説き伏せ、設置に至った。

初代自動車部部長にはその川越庸一を迎え入れ、佐吉の息子である豊田喜一郎[注釈 1] が中心となって設立したが、初代社長は佐吉の娘婿で喜一郎の義兄である豊田利三郎が就いた。実質的創業者の第2代社長 豊田喜一郎

織機製作における鋳造機械加工技術などのノウハウを活かし、研究期間を経て1935年(昭和10年)11月にG1型トラックを発表。翌1936年(昭和11年)9月に、同社初の量産乗用車であるAA型乗用車と、同時にG1型の改良型であるGA型トラックを発表した。これまで豊田自動織機製作所の自動車部として刈谷町(現・刈谷市)で開発・製造されていたが、1937年(昭和12年)8月28日に独立した新会社が広大な敷地のある愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)に設立され、本社と工場が設置された。本社工場が竣工した11月3日を創立記念日としている。

豊田自動織機製作所自動車部時代は、社名中の「豊田」の読みが「トヨダ」であったため、ロゴや刻印も英語は「TOYODA」であった。エンブレムは漢字の「豊田」を使用していた。しかし、1936年(昭和11年)夏に行われた新トヨダマークの公募で、約27,000点の応募作品から選ばれたのは「トヨダ」ではなく「トヨタ」(中島種夫[12])のマークだった。理由として、デザイン的にスマートであること、画数が8画で縁起がいいこと、個人名から離れ社会的存在へと発展することなどが挙げられている[13]。1936年9月25日に「トヨタ(TOYOTA)」の使用が開始され、翌年の自動車部門独立時も「トヨタ自動車工業株式会社」が社名に採用された。

本社が位置する豊田市は、奈良時代から約1,300年間「挙母(ころも、挙母市)」と称された。1959年(昭和34年)に「豊田(豊田市)」へ改称することを市議会で決議し、本社所在地の表示が「挙母市大字下市場字前山8番地」から「豊田市トヨタ町1番地」に変更された[14]。日本の企業城下町で、市名に企業名が採用されたのは稀な事例である。
初期

1941年に利三郎は会長に退き、第2代社長に創業者の喜一郎が就任した。日中戦争および太平洋戦争中は主に帝国陸軍向けのトラックと、少数のAA型乗用車、派生型のAB型(ABR型)・AC型などを生産した。航空機部門においては陸軍の要請で川崎重工業との合弁で東海航空工業(後のアイシン)を設立し、トヨタ自身も航空機用エンジンとなる「天風ハ13甲2型」を製造したほか、1943年には2人乗りのヘリコプターも試作した(下記参照)。1944年1月にはトヨタが軍需企業に指定されて軍需省の統制下に入った。1945年8月14日にはアメリカ軍の爆撃で挙母工場の約4分の1が破壊された。これは長崎市への原子爆弾投下を実施したチャールズ・スウィーニー指揮のアメリカ空軍第509混成部隊によるパンプキン爆弾の投下とされている。

挙母工場爆撃の翌日、8月15日に昭和天皇の玉音放送で日本の降伏が発表され、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本統治が始まると、トヨタは民需企業への転換が認められ、月産1500台のトラック生産が許された。また、GHQによる財閥解体の対象からも逃れ、豊田喜一郎への公職追放も行われなかったため、戦後の自動車工業の復興において相対的に有利な立場に立った[注釈 2]。これ全国販売網の構築においても起こり、戦時中に自動車販売を一元的に統制していた日本自動車配給株式会社(日配)が解体された際、米軍統治に入った沖縄県を除く46都道府県の県内組織のうち7割の32都府県がトヨタの地域ディーラーへ移行し、1947年には全国販売網の形成がほぼ完成した[注釈 3][15]。なお、1946年1月19日にトヨタ自動車コロモ労働組合が結成され、同年7月には会社側と労働協約を締結した。同組合は1948年3月には日産自動車といすゞ自動車の労働組合とともに産業別労働組合である全日本自動車産業労働組合(全自動車)を結成し、同組合は全自動車東海支部トヨタコロモ分会として、全国労働組合連絡協議会(全労連)傘下で急進的な活動を展開した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:619 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef