トヨタ自動車
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これ全国販売網の構築においても起こり、戦時中に自動車販売を一元的に統制していた日本自動車配給株式会社(日配)が解体された際、米軍統治に入った沖縄県を除く46都道府県の県内組織のうち7割の32都府県がトヨタの地域ディーラーへ移行し、1947年には全国販売網の形成がほぼ完成した[注釈 3][15]。なお、1946年1月19日にトヨタ自動車コロモ労働組合が結成され、同年7月には会社側と労働協約を締結した。同組合は1948年3月には日産自動車といすゞ自動車の労働組合とともに産業別労働組合である全日本自動車産業労働組合(全自動車)を結成し、同組合は全自動車東海支部トヨタコロモ分会として、全国労働組合連絡協議会(全労連)傘下で急進的な活動を展開した。
1950年危機

復興の歩みを進めていたトヨタだったが、1949年2月のドッジ・ライン開始に伴い日本経済はデフレと「安定恐慌」状態になり、トヨタは自動車販売の自由化を獲得したものの、公定価格制が残っていた中で資材の高騰に対し自動車販売価格の変更が遅れたこと、戦前の好調を支えた割賦販売方式も各顧客が返済期間の長期化を求めて売掛金が増加する影響を受けたことで、トヨタは1949年後半から明白に経営状況が悪化した。

同年12月16日、不採算部門だった社内の電装部を子会社として分離独立させた日本電装(現在のデンソー)で大規模な人員解雇(整理)策が提示されたのを皮切りに、トヨタの社内労組である全自動車東海支部トヨタコロモ分会は日本電装分会の支援とともに経営側との再建策協議を行い、12月23日には会社側が人員整理(解雇、リストラ)を絶対に行わず、組合側は賃金ベースの1割カットを承諾する覚え書きを交わした。

しかし1950年に入ってもトヨタの赤字は増大を続け、労組は4月9日から労働争議行動を開始し、会社側に経営再建計画の提出を要求した。4月24日に提示された会社側の再建案は、緊急融資を行った各銀行からの要求も受け、東京都区内にある芝浦工場[注釈 4]と田町工場の閉鎖、1600人の希望退職者募集、残留者の賃金1割カットなどとなり、労使間の激しい交渉が続いた。

その中で5月27日に豊田喜一郎社長が副社長や常務とともに辞任の意向を示し、6月5日に実際に辞任すると、会社側の早期解決希望を受けた組合側は6月10日に会社側と解決の覚書を交わした。これにより、既に1700人を超えていた希望退職の実施、両工場の閉鎖、賃金カットなどが行われ、結果として販売部門を含む全社員の4分の1を超える2146人が退職した(残留者は5996名)。7月18日には臨時取締役会で全役員の退任が決まり、親会社である豊田自動織機製作所の石田退三社長がトヨタ社長を兼任した。

トヨタ史上最大のこの危機は、労使覚書締結から半月後の6月25日に始まった朝鮮戦争で一気に解決へ向かった。国連軍としてアメリカ軍が直接参戦し、後方支援地域として日本の重要性が一気に高まると、トヨタも軍用トラック特需を受注して増産体制に入ったため倒産を回避し、その後も続く収益を利用して老朽化した設備の更新を実現して増産要請に応え、以後の発展へのインフラ整備に成功した。同時に技術者の中村健也の監督のもと、国産自家用車の開発を開始した。

この経営危機時、主力銀行だった帝国銀行東海銀行・大阪銀行の3行をはじめ、都銀地銀含めトヨタと取引のあった銀行25行のうち、大阪銀行を除く銀行24行による協調融資団が結成される[16]。その中、帝国銀行、東海銀行を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のために1950年4月3日にトヨタ自動車販売株式会社(トヨタ自販)が設立された。同社の社長には豊田自動織機による自動車生産の開始当初から販売部門の責任者を務め、戦争直後の販売網構築にも手腕を発揮した神谷正太郎が就任した。このとき融資に協力した帝国銀行と東海銀行が主力銀行となるが、上記の通りに融資条件に合理化も含まれており、トヨタは初の人員整理を断行している。帝国銀行は1954年に戦前の三井銀行に復称してもトヨタのメインバンクであり、その後もトヨタが三井グループの一員として、三井宗家に源流はないものの大きな影響力を行動する原因となった。また、東海銀行は愛知県を中核地域とする都市銀行として、UFJ銀行を経て三菱UFJ銀行に到るまで関係を維持した。

一方、経営危機の際、主力銀行の1つだった大阪銀行は、協調融資どころか逆に貸付金回収をおこない、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない(豊田自動織機に貸せても、トヨタ自動車には貸せない)」とにべもなく融資を断わっている。[16]これにより同行とは確執が生まれ、後継の住友銀行が三井銀行の後継であるさくら銀行と合併する(三井住友銀行)まで50年のあいだ取引を断絶。口座開設や取引を行わなかった。(ちなみに当時の融資担当常務は、後の同銀行頭取で堀田イズムと称さる合理主義的経営をとった堀田庄三である)。また、千代田銀行は取引解消に至らずも再建策に消極的であったことから、後継の三菱銀行は住友銀行ほどではないが、海外の資金調達や決済など一部に限られて東京銀行と合併する(東京三菱銀行、現・三菱UFJ銀行)まで45年のあいだ全面的な口座開設や取引はされなかった。
中興カローラ。33年連続で国内販売台数1位を獲得し、日本のモータリゼーションの発展に貢献した。

喜一郎の後を継いだ石田退三社長の時代にクラウン(1955年)、コロナ(1957年)、ダイナ(1959年)、パブリカ(1961年)などロングセラーカーを開発し、販売網の整備を推し進めた。1956年クラウンがロンドン?東京間を走破、国産自動車メーカー各社の自信となった。のちの中川不器男社長時代にスポーツ800(1965年)、カローラ(1966年)、ハイエース2000GT(1967年)などを発売。特にカローラの躍進により、トヨタは国内シェアトップを不動のものとした。このころから北米タイブラジルなどにも進出し、カローラが発売後10年の1974年に車名別世界販売台数1位になって、トヨタの急速な世界展開をリードした。

この一連の発展には1950年危機からの教訓があった。


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