トヨタ自動車販売
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歴史
創業トヨタグループ創始者 豊田佐吉1936年に発売されたAA型乗用車(復元車)

豊田佐吉愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に創業した豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)内に、1933年(昭和8年)9月に開設された自動車部がトヨタ自動車の起源である。同部門は、「中京デトロイト化構想」の創案者で大同メタル工業創立者の川越庸一豊田喜一郎を説き伏せ、設置に至った。

初代自動車部部長にはその川越庸一を迎え入れ、佐吉の息子である豊田喜一郎[注釈 1] が中心となって設立したが、初代社長は佐吉の娘婿で喜一郎の義兄である豊田利三郎が就いた。実質的創業者の第2代社長 豊田喜一郎

織機製作における鋳造機械加工技術などのノウハウを活かし、研究期間を経て1935年(昭和10年)11月にG1型トラックを発表。翌1936年(昭和11年)9月に、同社初の量産乗用車であるAA型乗用車と、同時にG1型の改良型であるGA型トラックを発表した。これまで豊田自動織機製作所の自動車部として刈谷町(現・刈谷市)で開発・製造されていたが、1937年(昭和12年)8月28日に独立した新会社が広大な敷地のある愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)に設立され、本社と工場が設置された。本社工場が竣工した11月3日を創立記念日としている。

豊田自動織機製作所自動車部時代は、社名中の「豊田」の読みが「トヨダ」であったため、ロゴや刻印も英語は「TOYODA」であった。エンブレムは漢字の「豊田」を使用していた。しかし、1936年(昭和11年)夏に行われた新トヨダマークの公募で、約27,000点の応募作品から選ばれたのは「トヨダ」ではなく「トヨタ」(中島種夫[12])のマークだった。理由として、デザイン的にスマートであること、画数が8画で縁起がいいこと、個人名から離れ社会的存在へと発展することなどが挙げられている[13]。1936年9月25日に「トヨタ(TOYOTA)」の使用が開始され、翌年の自動車部門独立時も「トヨタ自動車工業株式会社」が社名に採用された。

本社が位置する豊田市は、奈良時代から約1,300年間「挙母(ころも、挙母市)」と称された。1959年(昭和34年)に「豊田(豊田市)」へ改称することを市議会で決議し、本社所在地の表示が「挙母市大字下市場字前山8番地」から「豊田市トヨタ町1番地」に変更された[14]。日本の企業城下町で、市名に企業名が採用されたのは稀な事例である。
初期

1941年に利三郎は会長に退き、第2代社長に創業者の喜一郎が就任した。日中戦争および太平洋戦争中は主に帝国陸軍向けのトラックと、少数のAA型乗用車、派生型のAB型(ABR型)・AC型などを生産した。航空機部門においては陸軍の要請で川崎重工業との合弁で東海航空工業(後のアイシン)を設立し、トヨタ自身も航空機用エンジンとなる「天風ハ13甲2型」を製造したほか、1943年には2人乗りのヘリコプターも試作した(下記参照)。1944年1月にはトヨタが軍需企業に指定されて軍需省の統制下に入った。1945年8月14日にはアメリカ軍の爆撃で挙母工場の約4分の1が破壊された。これは長崎市への原子爆弾投下を実施したチャールズ・スウィーニー指揮のアメリカ空軍第509混成部隊によるパンプキン爆弾の投下とされている。

挙母工場爆撃の翌日、8月15日に昭和天皇の玉音放送で日本の降伏が発表され、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本統治が始まると、トヨタは民需企業への転換が認められ、月産1500台のトラック生産が許された。また、GHQによる財閥解体の対象からも逃れ、豊田喜一郎への公職追放も行われなかったため、戦後の自動車工業の復興において相対的に有利な立場に立った[注釈 2]。これ全国販売網の構築においても起こり、戦時中に自動車販売を一元的に統制していた日本自動車配給株式会社(日配)が解体された際、米軍統治に入った沖縄県を除く46都道府県の県内組織のうち7割の32都府県がトヨタの地域ディーラーへ移行し、1947年には全国販売網の形成がほぼ完成した[注釈 3][15]。なお、1946年1月19日にトヨタ自動車コロモ労働組合が結成され、同年7月には会社側と労働協約を締結した。同組合は1948年3月には日産自動車といすゞ自動車の労働組合とともに産業別労働組合である全日本自動車産業労働組合(全自動車)を結成し、同組合は全自動車東海支部トヨタコロモ分会として、全国労働組合連絡協議会(全労連)傘下で急進的な活動を展開した。
1950年危機

復興の歩みを進めていたトヨタだったが、1949年2月のドッジ・ライン開始に伴い日本経済はデフレと「安定恐慌」状態になり、トヨタは自動車販売の自由化を獲得したものの、公定価格制が残っていた中で資材の高騰に対し自動車販売価格の変更が遅れたこと、戦前の好調を支えた割賦販売方式も各顧客が返済期間の長期化を求めて売掛金が増加する影響を受けたことで、トヨタは1949年後半から明白に経営状況が悪化した。

同年12月16日、不採算部門だった社内の電装部を子会社として分離独立させた日本電装(現在のデンソー)で大規模な人員解雇(整理)策が提示されたのを皮切りに、トヨタの社内労組である全自動車東海支部トヨタコロモ分会は日本電装分会の支援とともに経営側との再建策協議を行い、12月23日には会社側が人員整理(解雇、リストラ)を絶対に行わず、組合側は賃金ベースの1割カットを承諾する覚え書きを交わした。

しかし1950年に入ってもトヨタの赤字は増大を続け、労組は4月9日から労働争議行動を開始し、会社側に経営再建計画の提出を要求した。4月24日に提示された会社側の再建案は、緊急融資を行った各銀行からの要求も受け、東京都区内にある芝浦工場[注釈 4]と田町工場の閉鎖、1600人の希望退職者募集、残留者の賃金1割カットなどとなり、労使間の激しい交渉が続いた。

その中で5月27日に豊田喜一郎社長が副社長や常務とともに辞任の意向を示し、6月5日に実際に辞任すると、会社側の早期解決希望を受けた組合側は6月10日に会社側と解決の覚書を交わした。これにより、既に1700人を超えていた希望退職の実施、両工場の閉鎖、賃金カットなどが行われ、結果として販売部門を含む全社員の4分の1を超える2146人が退職した(残留者は5996名)。7月18日には臨時取締役会で全役員の退任が決まり、親会社である豊田自動織機製作所の石田退三社長がトヨタ社長を兼任した。

トヨタ史上最大のこの危機は、労使覚書締結から半月後の6月25日に始まった朝鮮戦争で一気に解決へ向かった。国連軍としてアメリカ軍が直接参戦し、後方支援地域として日本の重要性が一気に高まると、トヨタも軍用トラック特需を受注して増産体制に入ったため倒産を回避し、その後も続く収益を利用して老朽化した設備の更新を実現して増産要請に応え、以後の発展へのインフラ整備に成功した。同時に技術者の中村健也の監督のもと、国産自家用車の開発を開始した。

この経営危機時、主力銀行だった帝国銀行東海銀行・大阪銀行の3行をはじめ、都銀地銀含めトヨタと取引のあった銀行25行のうち、大阪銀行を除く銀行24行による協調融資団が結成される[16]。その中、帝国銀行、東海銀行を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のために1950年4月3日にトヨタ自動車販売株式会社(トヨタ自販)が設立された。同社の社長には豊田自動織機による自動車生産の開始当初から販売部門の責任者を務め、戦争直後の販売網構築にも手腕を発揮した神谷正太郎が就任した。このとき融資に協力した帝国銀行と東海銀行が主力銀行となるが、上記の通りに融資条件に合理化も含まれており、トヨタは初の人員整理を断行している。帝国銀行は1954年に戦前の三井銀行に復称してもトヨタのメインバンクであり、その後もトヨタが三井グループの一員として、三井宗家に源流はないものの大きな影響力を行動する原因となった。また、東海銀行は愛知県を中核地域とする都市銀行として、UFJ銀行を経て三菱UFJ銀行に到るまで関係を維持した。

一方、経営危機の際、主力銀行の1つだった大阪銀行は、協調融資どころか逆に貸付金回収をおこない、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない(豊田自動織機に貸せても、トヨタ自動車には貸せない)」とにべもなく融資を断わっている。[16]これにより同行とは確執が生まれ、後継の住友銀行が三井銀行の後継であるさくら銀行と合併する(三井住友銀行)まで50年のあいだ取引を断絶。口座開設や取引を行わなかった。(ちなみに当時の融資担当常務は、後の同銀行頭取で堀田イズムと称さる合理主義的経営をとった堀田庄三である)。また、千代田銀行は取引解消に至らずも再建策に消極的であったことから、後継の三菱銀行は住友銀行ほどではないが、海外の資金調達や決済など一部に限られて東京銀行と合併する(東京三菱銀行、現・三菱UFJ銀行)まで45年のあいだ全面的な口座開設や取引はされなかった。


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