トム・ヨーク
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2008年の『ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー』の第66位に選出された[10]
生い立ち

1968年10月7日、イングランドのノーサンプトンシャーに生まれる。生後間もなく、原子物理学者を経て化学関係に勤めていた父グレアムの仕事の関係でスコットランドに転居した。生まれた時、左目は完全に麻痺していた。「僕の瞼は閉じたままで、誰もが一生このままだと思ってた。その後ある専門医が義眼みたいに筋肉を移植できる事を思いついた。そして僕は生まれて間もなくから6歳までの間に大きな手術を5回受けたんだ。でも彼らは最後の手術をしくじりやがった。それで僕の目は半分見えなくなったんだ」と本人はインタビューで語っている。半年に2回の引っ越しと、年中付けている眼帯で、子供の頃のストレスは相当なものだった。

1976年、父の仕事の関係でイングランド南部へ再び転居した。8歳の誕生日に安いスパニッシュ・ギターをプレゼントされる。人生で初めて熱中した楽器となり、短期間だがギタースクールにも通った。1978年、引っ越し続きだった一家は、ようやくオックスフォードに落ち着く。1980年まで、オックスフォード、ウィットニーのスタンドレイク聖公会小学校に通った。後に弟のアンディ・ヨークも入学した。母バーバラは教師で、その学校の教壇に立っていた。

1978年、10歳でスクールの友達と生まれて初めてバンドを結成。楽器が出来るのがそもそもトムだけで、「バンドというよりギターの配線を面白おかしくして燃やしたりする科学グループ」(Q誌)だったらしい。1979年、11歳で生まれて初めて作曲を行う。曲名は「Mushroom Cloud」で、原子爆弾の爆発を歌った曲。「(きのこ雲の)恐ろしさではなく、ただ単純にその見た目について書いた曲」と、後年インタビューで話している。(1998年Opinion誌)
レディオヘッド結成

1981年、男子全寮制のパブリックスクールであるアビントン・スクールに入学した。1982年コリン・グリーンウッドらスクールの友人達とパンクバンド「TNT」を結成した。その後、コリンとトムの2人は隙を見て脱退した。1985年エド・オブライエンをギターとして勧誘し、3人をオリジナル・メンバーとしてバンドを結成した。メンバーは流動的で、一時はホーンセクションが在籍していたこともあった。その後、リズムを刻んでいたドラムマシンが故障したため、上級生のドラマーフィル・セルウェイを勧誘してレディオヘッドの前身「オン・ア・フライデー」を結成した。兄のバンドに入りたがっていた当時15歳のジョニー・グリーンウッドをサポートメンバー、キーボードとして入れる。

1987年、スクールを卒業した。1年間いくつかのアルバイトを転々として生計を立てる(ほぼ全てクビになるか自分から辞めており、一つも長続きしていない)。1988年、名門エクセター大学に入学するため、トムは単身でイギリス南西部のエクセターに移り、バンドは一時休止した。大学で将来の妻レイチェル・オーウェンと出会う。大学では一時的に「ヘッドレス(ヘッドレス・チキン)」というバンドに参加。メンバーの一人、ジョン・マティアス(ザ・ベンズではコーラス・ストリングスに参加)はメジャーデビューしており、現在も活動中である。ザ・ベンズ収録の「High & Dry」はこのバンドでトムが書き下ろした曲である。1991年春、単位を取得し、エクセター大学を卒業した。ヘッドレスを抜けオックスフォードへと戻る。オン・ア・フライデーは活動再開し、ジョニーがギタリスト兼キーボーディストとして正式加入した。

1992年EMI傘下パーロフォンと契約する。レディオヘッドとバンド名を変えてメジャーデビューした。(敬愛するロックバンド、トーキング・ヘッズの作品『トゥルー・ストーリーズ』に収録の曲「Radio Head」が由来となる。)2000年ビョークのアルバム『セルマソングス?ミュージック・フロム・ダンサー・イン・ザ・ダーク』収録曲「アイヴ・シーン・イット・オール」にゲスト参加した。2001年2月、学生時代からの恋人であるレイチェル・オーウェンとの間に息子ノアが生まれる。2006年7月5日、初のソロ・アルバム『The Eraser』を発売した。
使用楽器

エレクトリックギターフェンダー・テレキャスター系をメインにしていたが、近年はギブソン・SGフェンダー・ジャズマスターの使用頻度が高く、曲によって使い分けている。エフェクターは歪みとディレイを中心とした汎用的なシステムを使用。アコースティックギターは主にギブソンマーティン製のヴィンテージかつ小振りなモデルを愛用している。ピアノシンセサイザーハーモニウムなどの鍵盤楽器も使用する。特にピアノはヤマハ製のものが多い。その他、タンバリンやミニドラムキットなど、曲に合わせて様々な楽器を演奏する。
歌唱・演奏スタイル2001年撮影

美しい高音の裏声を多用した歌唱スタイルが特徴。「女性や子供のよう」とも形容されるが、トムのコンプレックスでもあり、『キッド A』では意図的にそのスタイルを封印して歌声をノイズやエフェクトでかき消したりなど、時期によって試行錯誤を重ねている。パブロ・ハニー期には線の細い歌声とは正反対の、エモーショナルなシャウトを用いていたこともあった。現在では、本来の高い裏声をメインにした歌唱に戻っており、2006年のソロ・アルバム以降のインタビューでは「僕にはこの声しかないって改めて分かった」などと語っており、後の『イン・レインボウズ』では、それまで以上に披露している。

レディオヘッドの楽曲は一部のプログラミング主体の曲以外、トムの弾き語りを基調にバンドサウンドを肉付けしていくものが非常に多いため、トムのギタープレイはその多くが、伴奏となるコードプレイもしくはリフ主体であり、ギターノイズやリードプレイはエド・オブライエンジョニー・グリーンウッドに任せている。しかし、多くのバンドのリード・ヴォーカルの弾くようなサイド・ギターとしてのプレイ一辺倒というわけではなく、歌いながらメロディー・ラインとは全くリズムの違うリフを弾いていたりなど、ギター歴が非常に長いだけあって、目立たないながらも技術は高い水準にある。デビュー初期は非常に低い位置でギターを構えていたが、現在は標準もしくはやや高めになっている。

キッド A』以降から、本格的に鍵盤の弾き語りも行うが、ほとんど独学のためか、シンセサイザーに関しても「プログラミングや演奏はジョニーやコリンのほうが得意」と謙遜している。
レディオヘッドにおける貢献・作風

バンドの楽曲のすべての作詞を手掛ける。作曲もメンバーで最も貢献度が高いと言えるが、レディオヘッドの楽曲の多くはデモや大枠をトムが作り、アレンジをメンバー5人とナイジェル・ゴッドリッチで議論しながら行うというスタイルをとっているため、一人でバンドのすべての曲を一から十まで作曲しているわけではない[注釈 1]。ソロアーティストとしても活動。第三世界人権問題環境問題を軽視するコマーシャリズムグローバリズムに嫌悪感を抱いており、貿易法改善を呼びかけるといった社会運動にも積極的に参加している。楽曲の歌詞にも政治、社会問題に関連して(多くは婉曲的に)書かれたものがいくつか存在するが、その多くは何らかの扇動的意識や不特定多数への問いかけを内包しているというより、むしろアイロニカルで厭世的なものであり、ここは同じく政治的な歌詞が目立つU2ボノR.E.M.マイケル・スタイプとの大きな相違点である。
私生活

ヨークはオックスフォードシャーに住んでいる[11] 。彼はヨガ瞑想をする[12]。彼の唯一の兄弟、弟アンディは1993年から2000年までアンビリーバブル・トゥルースのボーカルだった。

23年間、ヨークはアーティストで講師のレイチェル・オーウェンと交際していた。彼はエクセター大学在学中に彼女に出会った。彼らの息子ノアは2001年、娘アグネスは2004年に生まれた。タイムズ紙によると、ヨークとオーウェンは2003年5月にオックスフォードシャーで密かに式を挙げ結婚した[13]


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