トッド・ラングレン
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他にはギルバート・オサリバンR&Bのギャンブル&ハフやデルフォニックス、オージェイズなども彼に影響を与えた。

この間にナッズとして、1968年に『ナッズ』、1969年に『ナッズ・セカンド』、1971年に『ナッズ・サード』と3枚のアルバムを発表したが、2枚目のアルバムでトッドとカーソンの2人がナッズを脱退。1970年にナッズは解散した。その後、ニューヨークへ渡ったトッドは、ボブ・ディランジャニス・ジョプリンのマネージャーとして知られるアルバート・グロスマンに拾われ、レコーディング・エンジニアとしてスタジオワークをこなしていくようになる。1972年にはアルバム『サムシング・エニシング』を発表し、同アルバムからシングル「アイ・ソー・ザ・ライト」が全米16位まで上昇するヒットとなった[3]。後にニュー・カーズと共に活動した。

1948年6月22日、ペンシルベニア州アッパー・ダービーに生まれる。
1967年地元のローカル・バンド、ウッディーズ・トラックストップ (Woody's Truckstop)を脱退
ナッズ (Nazz) を結成する。
1968年デビュー・シングル「オープン・マイ・アイズ」に続き、ファースト・アルバム『ナッズ』リリース
1969年セカンドアルバム『ナッズ・セカンド(Nazz Nazz)』リリース。
1970年ナッズ解散。ボブ・ディランのマネージャー、アルバート・グロスマンに見いだされ、ベアズヴィルのエンジニアとして働く。
3月、ジャニス・ジョプリンのアルバム『パール』のプロデューサーに起用されるが、ジャニスと衝突して降板。
9月、初のソロ・アルバム『ラント』をアンペックス・レコードよりリリース。
1971年6月、ソロ第2作『ラント: ザ・バラッド・オブ・トッド・ラングレン』リリース。
1972年3月、初の2枚組である『サムシング/エニシング? (ハロー・イッツ・ミー)』発売。
1973年『サムシング/エニシング? (ハロー・イッツ・ミー)』からのシングルカット曲「瞳の中の愛 (I Saw the Light)」がヒットしビルボードチャートで5位となる。ニューヨークに自身のためのスタジオを新築する。
プロデュースを手がけたグランド・ファンクのアルバム『アメリカン・バンド』が全米2位の大ヒット、同名のシングルは全米1位に。
1974年2月、5枚目のソロ・アルバム『未来から来たトッド』リリース。
6人編成のバンド、トッド・ラングレンズ・ユートピアを結成する。この後の数年間、このバンドでのライブ活動を積極的に行なう。
1975年トッド・ラングレンズ・ユートピア名義のライブ・アルバム『アナザー・ライヴ』リリース。
1976年バンドを4人編成に縮小、名義もユートピアに改める。そのユートピアを率い初来日。
6月、脱退したジョン・シーグラーに代わり、カシム・サルトンがオーディションによりユートピアに加入。
1977年2月、アルバム『太陽神』(ユートピア)リリース。イギリスのアルバム・チャートで27位まで上昇。
1979年ユートピア再来日
1980年自宅に強盗が入る被害を受ける。犯人の1人は「瞳の中の愛」を口ずさんでいたという
1983年ベアズヴィル・レコードを離れる。
1985年ユートピアとしての最後のオリジナル・アルバムとなる『POV』リリース。
1986年プロデュースしたXTCのアルバム『スカイラーキング』リリース。XTCのアンディ・パートリッジとの確執が話題になるが、このアルバムのヒットによりXTCを救うことになる。
1988年ソロとして初来日、バックバンドなしのMIDIを駆使した文字通りの「ワンマン・コンサート」を行う。
1989年ソロ・アルバム『ニアリー・ヒューマン』リリース。ワンマン・レコーディングからホーン隊、女性コーラス隊などによる12人編成のビッグ・バンドに方向転換。女性コーラスの中の一人は、後にトッドの妻となるミッチェル・グレー。
1990年1月、ビッグ・バンドを率いて来日。このときの東京公演がビデオでリリースされる。
1991年ビッグ・バンドによる2枚目のアルバム『セカンド・ウインド』リリース
ビッグ・バンド編成で再来日。
1992年ユートピアを一時的に再結成し来日。5月3日から15日にかけて東京、大阪などで公演を行う。この再結成は日本限定であった(来日直前にサンタ・クララで1回の公演を行った記録あり)。また、同時期に来日していたチープ・トリックの東京公演に飛び入り。※チープ・トリックのギタリスト、リック・ニールセンはトッドの代役として短期間ではあるがナッズに在籍したことがある。
5月後半から10月にかけて、リンゴ・スターの「ヒズ・オール・スター・バンド」に参加し、北米・ヨーロッパをツアー。ソロ・パートでは「Bang The Drum All Day」などを披露。このときのメンバーは他にジョー・ウォルシュデイヴ・エドモンズ、ニルス・ロフグレン、バートン・カミングス、ティモシー・シュミットザック・スターキー(リンゴの息子)など。
1993年再びワンマン・レコーディングの形に戻りアルバム『ノー・ワールド・オーダー』をリリース。「インタラクティヴ」と銘打った、リスナーによる編集などが可能なCD-I盤も出すが、CD-Iという一般には普及していない特殊なハードウェアが必要であったために、さほど話題にはならなかった。
トッドと3人の女性ダンサー("TR-i Girls"(Michelle Gray, Melanie Macbee and Millie Madjidi))という編成で来日。観客参加のインタラクティヴ・ショーを行うが、大阪公演は機材のトラブルで中止となる。
1995年6月、普通のバンド編成で来日。東京、大阪で来日公演。メンバーはジェシ・グレス(G)、ラリー・タッグ(B)、プレイリー・プリンス(D)、ジョン・ファレンジーック(Key,G)ら。テンキーをキーボード代わりに使うパフォーマンスを見せたが、大阪公演では上手く作動せず演奏中に叩き壊す。
1997年新曲の発表をインターネットを通して行なう。
1999年再びリンゴのオール・スター・バンドに参加。2月から3月にかけて北米をツアー。このときのメンバーは、ゲイリー・ブルッカー、サイモン・カーク、ジャック・ブルース、ティム・キャペロ。
2000年5月から8月にかけて、カシム・サルトン(B)、トレイ・サバテリ(D)の3人("Power Trio")で北米をツアー。
2001年アラン・パーソンズジョン・エントウィッスルらと「A Walk Down Abbey Road」と称するビートルズのトリビュートバンドを結成。


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