トゥール・ポワティエ間の戦い
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最終日において、フランク軍がイスラム軍の略奪品の荷車などを襲撃した[3]人種民族宗教入り乱れるガーフィキーの軍では戦利品の防衛と攻撃とで指揮系統が乱れた(当時の略奪品は、そのまま兵士たちの給料でもあった。また、イスラム側は家族を同伴していたことも理由である)、ガーフィキーは混乱した自軍をまとめようとして、前に出たところを矢で射られ死亡した。(ガーフィキーの死亡は「754年のモサラベ年代記」でも言及されている。)

イスラム側の記録によると、ガーフィキーの死後に有力者たちで会議を行ったが意見が纏まることは無く夜の内に撤退したという。(ガーフィキーはイスラム側では、民族や文化の垣根を越えた優秀な指導者であったと評価されている。)

フランク王国連合軍は、後日の攻撃に備えて直ぐには武装解除しなかった。
影響

このフランク人の勝利はムハンマドの死から100年後にあたり、しばらくの間、ピレネー山脈を超えてフランス王国領内にアラブ人が侵入するという深刻な脅威を終わらせた。この勝利により、宮宰カールは「マルテル」の称号を得て、「カール・マルテル」と呼ばれるようになる。そしてこの戦いによって、フランク王国内における地位を確固たるものとした。アウストラシアの宮宰出身であったカール・マルテルの息子小ピピンは教皇を味方につけ、メロヴィング朝を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた。小ピピンは息子に王位の世襲を行わせたため、小ピピンの息子であるカールが王位についた。これが有名なシャルルマーニュことカール大帝(800年フランク・ローマ皇帝として戴冠。)である。

ヨーロッパにおいては、キリスト教圏の防衛と中世の始まりから評価が高い戦いだが、イスラム側ではそこまで大きい評価はされていない。キリスト教圏の防衛という一事と、カール・マルテルがフランク王国内で絶対的な地位を確立し、それが後のシャルルマーニュに繋がってヨーロッパの礎になったことによる評価が大きい。(一方エドワード・ギボンは自著『ローマ帝国衰亡史』の中で高く評価している。)

一方で、イスラム圏からすれば小さい小競り合いという印象の評価である。事実上、アル=アンダルスとアキテーヌ公の問題にカール・マルテルが介入したことから「領主の小競り合い」あるいは「略奪による富が目的」だったなどヨーロッパとは違い著しく異なる。
備考

SF作家アーサー・C・クラークは『楽園の泉』の作中にて、もしこの戦いでイスラム側が勝利してヨーロッパを征服していれば、キリスト教支配による中世暗黒時代は回避され、産業革命は1000年早まって人類は既に他の恒星にまで到達していたかも知れないとして「人類史最大の悲劇の一つ」と評している。
脚注^ MIZUKAMI, Ryo (2014). “The Group Ij?za Referred to by Ibn al-Fuwa?? in the Late 13th Century”. Bulletin of the Society for Near Eastern Studies in Japan 57 (1): 62?72. doi:10.5356/jorient.57.1_62. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 0030-5219. https://doi.org/10.5356/jorient.57.1_62. 
^ Legal History Review (34): 436?439. (1984). doi:10.5955/jalha.1984.436. ISSN 1883-5562. https://doi.org/10.5955/jalha.1984.436. 
^ a b c “battle of poitiers 732 battle of Moussais, battle of Tours, Charles Martel Eudes of Aquitaine, Abd. er-Rahman, medieval warfare”. czwycxwwzbsbbrp3hh5xi36ugy-ac4c6men2g7xr2a-home-eckerd-edu.translate.goog. 2021年4月24日閲覧。[リンク切れ]

参考文献

アミール・アリ『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社)

関連項目

754年のモサラベ年代記 - この年代記はトゥール・ポワティエ間の戦いの最も詳細な部分を含んでいる。

ポワティエの戦い

タラス河畔の戦い

ワールシュタットの戦い

日仏関係 - 1980年代前半、フランス政府が日本製ビデオデッキ通関をポワティエの税関に限定した事で発生した貿易摩擦が、この戦いになぞらえて称された。

典拠管理データベース: 国立図書館

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