アル=アンダルスのワーリーであったアッ=サム・イブン・マリク・アル=ハウラーニー(英語版)がトゥールーズの戦い(英語版)でヨーロッパへの領土拡張を行っている。トゥールーズの戦いでは、アキテーヌ公のウードの活躍により勝利した。
この戦いでハウラーニーは重傷を負い、まもなく亡くなった。しかしイスラム勢力の脅威が消えた訳ではなく、緩衝地帯に位置するアキテーヌには常に不安があった。
この後、ウード大公が自分の娘(おそらく名前はランペジア(英語版))をアル=アンダルスの副知事であるムヌザ(英語版)(サルデーニャのムヌザ:カタルーニャの領主、ベルベル人)に嫁として送った。ウード公と和睦することで、アキテーヌを緩衝地帯とする目的があったと思われる。しかし、新たにアル=アンダルス総督(英語版)に任命されたガーフィキーから反乱を企てているとムヌザは疑われることになる。対するメロヴィング朝フランク王国の宮宰であるカールも、イスラム国家と通じることを良しとせず、アキテーヌへと侵攻した。
730年(ヒジュラ暦112年)にワーリーに任命されたガーフィキーは 、サルデーニャで独立政権を打ちたてようとしたムヌザを攻撃した。彼は殺され、妻(ランペジア)はヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクのハレムへと送られた。ウード公は援軍を送りたかったが、不信を買った宮宰カールと交戦中でできなかった[2]。
ウード公も宮宰カールに敗れ、アキテーヌは没収された。その後ピレネー山脈を越えてウード公の領地であるアキテーヌへと侵攻するガーフィキー率いるイスラム勢力を、領土を失ったウード公と家臣たちは、ガロンヌ川の戦い(英語版)(ボルドーの戦い)で対決する。ウード公の軍を破って、アキテーヌ北部まで侵攻し略奪を行った。
だが、ウード公は逃げ延び体制を建て直すため、宮宰カールへと救援要請を行った。イスラム勢力の侵攻を知った宮宰カールはウード公を自軍の右翼に組み込み、他の領主たちを集めてフランク連合軍を組織。トゥールとポワティエ間にある平野でアル=アンダルス総督であるガーフィキー軍と衝突することになった。 宮宰カール率いるフランク王国連合軍は、騎兵の多いガーフィキーの軍隊に対し場所を選んだ。イスラム側の多くは騎兵であり機動力を発揮できないよう、丘や樹木などの地形とファランクスを上手く活用し防衛体制と整えた。歩兵と騎兵の戦闘ながら決着はつかず、7日間の小競り合いが続いた。イスラム側はフランク王国連合軍の主体が歩兵であることから、戦闘を楽観視していた。 トゥールとポワティエの間のクラン川
戦闘
歴史家のポール・K・デイヴィス(英語版)は1999年にイスラム教徒の軍隊を約80,000人、フランク王国連合軍を約30,000人と推定した。一方でエドワード・J・シェーンフェルト(Edward J. Schoenfeld)はウマイヤ朝の数が60,000-400,000とフランク王国連合軍が75,000の範囲であったという古い見積もりを拒否した。戦地の広さと、当時の補給事情を鑑みるに50,000人を超える兵数は運用できないと指摘した。テリー・L・ゴア(Terry L. Gore)はフランク王国連合軍15,000?20,000人、イスラム教徒の軍隊を20,000?25,000人と見積もった[3]。
最終日において、フランク軍がイスラム軍の略奪品の荷車などを襲撃した[3]。人種・民族・宗教入り乱れるガーフィキーの軍では戦利品の防衛と攻撃とで指揮系統が乱れた(当時の略奪品は、そのまま兵士たちの給料でもあった。また、イスラム側は家族を同伴していたことも理由である)、ガーフィキーは混乱した自軍をまとめようとして、前に出たところを矢で射られ死亡した。(ガーフィキーの死亡は「754年のモサラベ年代記」でも言及されている。)
イスラム側の記録によると、ガーフィキーの死後に有力者たちで会議を行ったが意見が纏まることは無く夜の内に撤退したという。