トゥーランドット
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ちょうどこの頃、同戯曲がマックス・ラインハルトの演出によってドイツで舞台化され、評判が高かったことも影響していると考えられる(プッチーニはドイツ贔屓で有名で、この舞台をベルリン滞在中に観たことがあった)。
既作の存在

ゴッツィの『トゥーランドット』は、プッチーニが題材検討しているこの頃までに少なくとも11人の作曲家によってオペラ化されていた。その全てをプッチーニが熟知していたとする証拠はないが、アントニオ・バッジーニフェルッチョ・ブゾーニによるそれは、プッチーニは実際に聴いたことはなくともその存在を知っていたと考えるのが自然であろう。バッジーニはミラノ音楽院におけるプッチーニの指導教官の一人であった。またブゾーニのそれはわずか3年前、1917年チューリッヒで(オペラとして)初演されたばかりだったし、プッチーニは同時代の他の作曲家の作品には、ジャンルを問わず常に深い関心を寄せていた。

もっとも、プッチーニは他人が作曲したからといって意に介するような人物でもまたなかった。過去においても『マノン・レスコー』ではマスネ、『ラ・ボエーム』ではレオンカヴァッロという競作者の存在を十分に意識しつつ、プッチーニは彼らの作品を凌駕するに至っている。
制作の開始

当時ヨーロッパ音楽界における最大の名士の1人であったプッチーニは、欧州各都市を訪問し多忙であり、台本制作チームとの交渉は遅々として進まなかったが、それでも1920年の8月頃までには、全体を3幕構成にすること等のアウトラインは固まっていた。またこの頃、冷たい女主人公トゥーランドット姫と対照的な、優しさを体現した「もう1人の、小さい女性」の役柄を創出することも決定した。これは原作に登場しない女召使・リューとして具現化する。一方で、ゴッツィの原作に登場する伝統的な仮面付の4人のコミカルなキャラクター(これは中国風というより、コメディア・デラルテの伝統に則った役柄)に関してはプッチーニは導入の是非を悩んだ末、宮廷の3大臣、ピン、パン、ポンとして残すことになった。プッチーニはまたこの頃、中国から帰国した外交官、ファッシーニ・カモッシ男爵の土産物に中国のメロディーを奏でるオルゴールがあることを知り、同男爵から借り受けてメロディー採集を行ったりもしている。
スランプ

1921年から1922年にかけてプッチーニは一種のスランプ状態に陥った。ある時はオペラ全体を短縮し2幕物とするよう台本作家チームに強硬に主張、またある時は「トゥーランドットを放棄し、よりオリジナリティーに富んだ新作を作りたい」と言い出して他者を当惑させたりもしている。第1幕は概ね完成したものの、残りの作曲の進行ははかばかしくなかった。特に最終第3幕でのトゥーランドット姫と王子カラフとの二重唱の処理方法が彼の悩みの種だった。

1922年7月には気晴らしの意味もあって、プッチーニは息子トニオらとともにオーストリアドイツオランダおよびスイスを巡回するというドライブ旅行に出発する。途中ミュンヘン近くの都市インゴルシュタットのホテルでの夕食時、アヒル肉の骨を咽頭部に突き刺すというアクシデントに遭遇、外科医によって除去してもらう羽目に陥っている。2年も経たぬ間に、まさにその箇所から喉頭癌が発生するのだが、医学的には因果関係は不明とされている(ヘヴィー・スモーカーのプッチーニは以前から喉の不調を訴えることが多かったし、彼の家系には癌患者が多い)。

ともあれ、旅行後もプッチーニのスランプはしばらく続き、1923年4月頃になりようやく作曲のペースが戻ってきた。この間、2年以上の貴重な時間が失われ、これが後に大きく影響することになる。
作業再開、病魔との闘い

オペラ完成前だが、初演のための手筈は着々と進められた。初演の舞台はミラノ・スカラ座、日時は1925年4月、指揮はアルトゥーロ・トスカニーニ、舞台装置は中国滞在経験もあり東洋趣味に長けたガリレオ・キーニ等々が決定した。トスカニーニとプッチーニは第一次世界大戦時からの政治的対立(プッチーニは親ドイツ、トスカニーニは嫌独派)もあり過去数年間冷却関係だったが、この頃再び友好関係を取り戻した。後、トスカニーニに宛てて、「この作品をやる時には、完成直前に作曲家は亡くなったのだと伝えて欲しい」というような手紙を書いたという[1]

しかし1924年の3月頃からは激しい喉の痛みと咳が彼の作業を停滞させる。同年10月には台本はほぼ最終稿の形を整え、プッチーニの作曲を待つばかりだったが、彼の病気は外科手術不能の癌であると診断される。プッチーニ夫妻にはその事実は秘され、息子トニオだけが真実を知っていた。
プッチーニの死

彼らは最後の望みを托して、この頃最先端の癌治療法とされたラジウム療法(ラジウム含有の金属針を患部に挿入)を受けにブリュッセルのレドゥー教授を訪問すべく11月4日に出発する。3時間にわたる手術は同月24日に行われ、いったんは成功かと思われたものの、突然の心臓発作によりプッチーニは11月29日息を引き取った。『トゥーランドット』は召使リューが自刃した箇所以降が未完となり、あとは23ページにわたるスケッチだけが遺された。
アルファーノの補作

プッチーニの死後、補作を巡っての混乱があった。まずトスカニーニがリッカルド・ザンドナーイの起用を主張したが、プッチーニの版権相続者となった息子トニオはそれに難色を示した。オペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』(Francesca da Rimini, 1914年)および『ジュリエッタとロメオ』(Giulietta e Romeo, 1922年)の作曲家であり、当時プッチーニの後継第一人者を自他共に任じていたザンドナーイが、プッチーニの意図を離れたオリジナルなものを創作してしまうことへの懸念があったものとみられる。

かわりにトニオが推したのがフランコ・アルファーノであった。より中庸温厚な性格のアルファーノならプッチーニの構想により敬意を払ってくれるであろうとの期待、また東洋的な題材を扱ったオペラ『サクーンタラ』(Sakuntala, 1921年)が成功していたことも理由であった。

アルファーノは1926年1月に総譜を完成、それはまずトスカニーニの許へと送られた。ところがトスカニーニは「余りにオリジナル過ぎる」と評して、400小節弱の補作中100小節以上をカットする。これは、ザンドナーイ起用案が退けられたことへの意趣返し、年少のアルファーノに対する敵意(アルファーノはトスカニーニより8歳年少。もっともザンドナーイはそのアルファーノよりも更に8歳若い)、あるいは自らの権威確立のためのブラフ、など様々の意図が込められていた行為だろう。アルファーノはこのカットに対して激怒、それならば自分はトリノ音楽院の教授を辞してトスカニーニに作曲法の教えを乞おう、と言ったとも伝えられるが、結局は削除を呑まざるを得なかった。
初演

プッチーニ存命中の予定よりちょうど1年後の1926年4月25日、ミラノ・スカラ座にてオペラ『トゥーランドット』は幕を開けた。題名役トゥーランドット姫にはポーランドアメリカ人のローザ・ライサ(英語版)、相手役カラフ王子はスペイン人のミゲル・フレータ、召使リューにはイタリア人のマリア・ザンボーニ(Maria Zamboni)が配された。

初演はイタリアにとっての国家的イヴェントと見做され、当初はオペラ愛好家でもあるベニート・ムッソリーニ首相も臨席する予定であったが、当時国家元首の臨席時に演奏されることとなっていたファシスト党党歌「ジョヴィネッツァ(英語版)」(Giovinezza)の開演前での演奏をトスカニーニが拒絶したことから、ムッソリーニがミラノにいたにもかかわらず出席取止めとなっている。

初日当夜、プッチーニによる作曲部分が終わったところ(リューの自刃の場面)でトスカニーニは突然指揮を止め、聴衆に「マエストロはここまでで筆を絶ちました」(Qui il Maestro fini.)と述べて舞台を去り、幕が慌ただしく下ろされた。2夜目になって初めてアルファーノ補作部分(上述の如くトスカニーニによるカット処理後)が演奏された。プッチーニ亡き後、イタリア・オペラ界における最大の権威はトスカニーニに存することが如実に示されたエピソードであった。
日本における上演

日本における『トゥーランドット』初演は1951年6月28日から昼夜7回制により、「東京オペラ協会」の旗揚公演として日比谷公会堂にて行われた(日本語訳詞上演)[2]。主なキャストは関種子・大熊文子(トゥーランドット)、木下保・荒木宏明(カラフ)、加古三枝子伊藤京子・福士蝶子(リュー)、管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団、指揮は東京オペラ協会の指導者、金子登であった。なお第3幕、3大臣がカラフを誘惑する場面でストリッパーを登場させ話題になった、と記録にある。
中国における上演

中華人民共和国においては、オペラ『トゥーランドット』は長い間、西洋諸国による中国蔑視の象徴的作品とされ上演は果たされなかった(もっとも、他の多くのオペラも「ブルジョワ的」というレッテルを貼られていたが)。しかし改革開放政策の進展と共にタブー視は次第に薄れ、中央歌劇院(中央歌?院)によって1989年に演奏会形式での中国初演、1995年に完全な上演が行われている[3]。1998年9月のズービン・メータ指揮による公演はチャン・イーモウ(張芸謀)の演出で、舞台を代に設定して衣装や舞台装飾もその時代に徹底して合わせた演出となった。また国際的なキャストを擁するとともに人民解放軍部隊をエキストラ出演させ、紫禁城内の特設ステージで上演された同公演は大きな話題となった(同公演は映像作品化されている)。

その際の役名の表記は次の通りである。

トゥーランドット:杜蘭朶

カラフ:?拉富

リュウ:柳(小柳)

そのほかにも中国では創作京劇でトゥーランドットに想を得たものもあり、魏明倫(中国語版)による《中國公主杜蘭?》が著名である。この作品は、京劇の伝統と西洋音楽の融合をと調和を企図したもので、伴奏楽器にオーケストラを使用するほか、プッチーニのこの作品のなかから「誰も寝てはならぬ」(中国語では《今夜無人入眠》)などのメロディが採用されている。


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