1362年にモグーリスタン軍はティムールを撃破するが[7]、敗戦の後に勢力を盛り返したティムールによって1363年に西トルキスタンはトゥグルク・ティムールの支配を離れ、同年に彼自身も没した[2]。
彼の遺体はアルマリクに葬られ、彼を祀った霊廟が霍城県(コルガス市)に現存する。 トゥグルク・ティムールは東チャガタイ・ハン国のハンで最初にイスラームに改宗した人物である[8][1]。伝承によれば、スーフィーのジャマール・アル=ディーンと即位後にイスラームに改宗することを約束し、即位後に約束通りジャマール・アル=ディーンの子であるアルシャド・アル=ディーンの導きによって改宗し、配下のモンゴル人にも改宗を勧めた[9]。この時にアルシャド・アル=ディーンが奇蹟を示したことでモンゴル人は畏敬の念を抱き、トゥグルク・ティムールと共に160,000人のモンゴル人も改宗したという[1]。 しかし、トゥグルク・ティムールの改宗後ただちに、モグーリスタンがイスラム国家化した訳ではなかった[10]。東トルキスタンの仏教徒社会に急激な変化は起きず、仏教寺院は免税特権を与えられていた[11]。宮廷内も西チャガタイ・ハン国ほどのトルコ化は進んでおらず、モンゴル語が公用語の地位を保っていた[12]。
イスラームへの改宗
脚注^ a b c 濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、98頁
^ a b c d e 佐口「トゥグルク・ティームール」『アジア歴史事典』7巻収録
^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、150頁
^ a b 加藤『ティームール朝成立史の研究』、151頁
^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、151-152頁
^ 川口『ティムール帝国支配層の研究』、234頁
^ 川口『ティムール帝国支配層の研究』、115頁
^ 杉山、北川『大モンゴルの時代』、359頁
^ 杉山、北川『大モンゴルの時代』、359-360頁
^ 杉山、北川『大モンゴルの時代』、360頁
^ 濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、98-99頁
^ 濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、99頁
参考文献
佐口透「トゥグルク・ティームール」『アジア歴史事典』7巻収録(平凡社, 1959年)
杉山正明、北川誠一
濱田正美「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』収録(岩波講座13, 岩波書店, 1998年8月)