デーモン閣下
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金色の髪を派手に逆立て、白色を基調とした顔貌[注 4]

公私混同を非常に嫌い、人間としての側面はあくまで「世を忍ぶ仮の姿」であり、プロフィールは基本的に公表せず、関係者や来歴は必ず「世を忍ぶ仮の」という一節を付加して表現している。年齢も『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した際、「10万24歳」と答えるなどしている。

吾輩」と自称し、「閣下」と呼ばれる[注 5]。「デーモンさん」、「小暮君」などと呼ばれることもあるが、「小暮君」と呼ばれた際は「閣下と呼べ!」「せめてデーモン小暮と呼んでほしいのだが…」と反発している[注 6]。非公表である本名(地上での戸籍名)を呼称することは一切許容しておらず、本人がふれる時も「世を忍ぶ仮の名」としている。

派手な外見や所作から来る印象ばかりを取り沙汰されることが多いが、「信者」と称されるファンの多くは「作品の内容」「言動」「エンターテイナーとしての技量」を大いに支持している。単に「神と悪魔と人間」という視点だけでなく、幼少時にアメリカに在住していた帰国子女であり、異文化交流に関してのコメントも多い。

日本伝統芸能文化にも造詣が深く、純邦楽(特にジャパメタのギタリストでもあり、箏曲家の沢井比河流とは親交も深い)・等と共演することが年間25回を超える。好角家でもあり、相撲知識は好角家や大相撲関係者すら舌を巻く(後述)。頭の回転が早く、テレビ番組での彼のやり取りを見た、閣下支持でも何でもなかった音楽評論家渋谷陽一を感心させている。

同時に、裏では芸能界での大先輩やスタッフに丁寧に接するなど几帳面な一面を見せている。「恐ろしい見た目の悪魔」だが実際に悪魔のように人の不幸を喜んだり、傷付けたり、悲しませる事は基本的には行わない(行う場合は「台本」や「演出」に従い、相手にも了承を得ている)。特に「差別」や「犯罪」については非常に忌み嫌っており、「悪魔だからこそ許せないし、許すつもりもない。」と語っている。

悪魔ちゃん命名騒動があった時期に、インタビューで「悪魔は子供が生まれたら“悪魔”と名づけるのか」と尋ねられ、「つけねーよ。じゃあ、お前は自分の子供に“人間”と名前をつけるのか」と切り返した。また、その人物像ゆえ、公の場での対談や共演相手の装飾品に十字架が使用されるのを極度に嫌う。
経歴
生い立ち

父は銀行員[4]、「世を忍ぶ仮の姿」である幼稚園生時代から小学1年の途中までニューヨーク[5][6][7][8]、小学2年までを東京で[5][6][7][8][9]、小学3年から5年までを広島市西区で過ごし[5][6][7][8]、小学6年以降は東京で育った[5][6][7][8]

「一番長く暮らした広島を、『世を忍ぶ仮のふるさと』だと思っている」と公言しており[4]、2020年8月、聖飢魔IIの地球デビュー35周年期間限定再集結に合わせタイアップした「聖飢魔U×悪魔のおにぎり広島風お好み焼きごはん -悪魔の故郷味-」がローソンから発売された[10]

世を忍ぶ仮の小学生時代に坂上二郎司会のラジオ番組に出演し、坂上のものまねで『学校の先生』を歌った。当時から広島市内で布教活動を手がけており、地球統一による平和への願いは「どの悪魔よりも強い」と自負している[7]

帰国子女である経歴および桐蔭学園高等学校卒業という学歴について『爆笑問題カーボーイ』(TBSラジオ)で「織田裕二の先輩」とともに暴露された際に認めている。桐蔭学園高等学校・早稲田大学を通じた先輩であるやくみつるとは、在学中には面識がなかったものの共通の趣味である相撲を通じて親交を深め、「やく先輩」と呼ぶほどの関係となっている。

大学受験時の頃について、「これ、話になんないね、っていう点数しかとってなかったので・・・。我輩の世を忍ぶ仮の父親は銀行員だったので、行くんだったら、ここか、ここより上の学校じゃないと行っても意味がない・・・みたいなのがちょっとあって。だから現役の年も滑り止め的なところはほぼ受けてなくて。だから、全滅は当たり前なの」と恵俊彰のラジオ番組で語っている[11]。その後、一浪して早稲田大学に合格して、入学する。
デビュー前

怪獣やヒーロー等、特撮フィルムのキャラクターについての造詣も深く、ゴジラの鳴き真似コンテストに出場して優勝した実績を持つ[注 7]。当時、塾の講師のアルバイトをやっていて、生徒から「ゴジラの鳴き声コンテスト」があることを教えられて応募したところ、ラジオ局から電話があり、優勝賞金10万円を東宝からもらったという。

早稲田大学の学生時代は、「やりたいことは全部やろうと思ってたので、とりあえず面白そうなものは全部手を出したのね。・・・で、まず演劇は学校のサークルではなく、俳優養成所に行ったのね」と語っている[12]。俳優養成所では、恵俊彰の相方であるホンジャマカ石塚英彦と出会い、一緒に映画やドラマのエキストラをやったこともあるという[13]

大学在学中に展開していたバンドでは、演目に「ウルトラマンの歌」を取り上げることも多かったという。右半身をウルトラマン・左半身をレッドキングに仮装して独りで格闘シーンを演ずるパフォーマンスなど、特撮キャラクターのモノマネの巧みさから、同学の先輩で特撮映画出演実績もあるラサール石井から真剣に入門勧誘を受けたとされている。早慶戦の試合前にマイクパフォーマンスとしてゴジラの鳴き真似を披露し、スタジアム観衆全員からの喝采を浴びたことでも知られる。怪獣映画や特撮番組に造詣が深い事から、当時早稲田で創設されたばかりの特撮サークル『怪獣同盟』の創始者であり、後に「平成仮面ライダーシリーズ」のチーフプロデューサーとなった寺成紀とは交流があったという[14]

たけしのお笑いサドンデス』に出演した際にはビートたけしから「将来タレントになれる」と評価された。「タモリ倶楽部」の「大学生のコンパ芸」を紹介する放送回では、世を忍ぶ仮の名で友人等と出演し、ゴジラの鳴き真似や、他の宴会芸などを披露している。

音楽活動では大学時代フォークソングクラブに所属し「走り幅跳び」や「顔面大陸棚」「生老婆(ナマローバ)」「紫馬肥(ムラサキウマゴヤシ)」「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関するバンド」というバンドを組んでいた。同学の先輩であるサンプラザ中野爆風スランプを結成しメジャーデビューを目指した活動を始めたことから、中野の後を継いで素人バンド「スーパースランプ」の2代目ボーカリストに就任している。

大学時代は新宿東口の伝説的ポルノデパート「ファイブ・ドアーズ」でアルバイトしており、当時「ビニ本収集家」として有名だった谷村新司が来店したときにデーモンが受付に居たと本人は語っている。谷村と共演した際も「谷村さん、ファイブ・ドアーズに入った事あるでしょう?」「あそこで、バイトしてたんですよ、あ、谷村新司が来た、と判って可笑しくて必死に笑いこらえてました」と話し、谷村を驚かせた[15]

徹子の部屋』(テレビ朝日系)にゲストとして招かれた際には、大学の卒業式に悪魔の姿で出席し、当然ながら職員が制止したが「これは悪魔の正装だ!」「みな明日から社会に旅立つ姿で卒業式に来ている。吾輩が明日から社会に旅立つ姿がこれなのだ!」との発言を繰り返し強硬に押し切ったところ、通りかかった知らない教授に「最近は君のような気骨のある学生が少なくなった」と激励を受け、共に記念写真を撮ったというエピソードを披露している。


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