デーモン・アルバーン
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程なくソロでのプロデビューの話が舞い込むもバンドとしてのキャリアに拘った為断っているが、そこで組んだバンドの一つが後のブラーの前身となるバンド「サーカス」だった。

ドラムのデイヴ・ロウントゥリーも参加していたサーカスは後にギタリストのグレアムと、グレアムの大学の友人であったベーシストのアレックス・ジェームスが加入しバンド「シーモア」が誕生した。1989年、ライブ活動を始めるとすぐにレコード会社との契約を獲得。1990年にはバンド名を「ブラー」に改名し、デーモンはフロント・マンとしてメジャー・デビューを果たした。
1990年代、ブラーでのブレイク

1991年のファーストアルバム『レジャー』では早くも全英7位を獲得するなど、イギリスではとんとん拍子で成功を収めるも、その後のアメリカ進出には失敗。この経験から、イギリス的なものにバンドのアイデンティティを強く求めるようになり、アメリカ発のグランジブーム吹き荒れるイギリスのチャートシーンにおいて、レコード会社の反対を押し切り、敢えてブリティッシュ・ロックの伝統を踏襲したアルバム、『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』を発表する。当時の流行には乗らなかったため、セールス的には振るわなかったものの、作品そのものは高い評価を獲得した。アルバム製作時、デーモンは英国的な音楽の流行が訪れることを予見していたが、その通りに1993年ごろからイギリス的な音楽は徐々に国内で盛り上がりを増しつつあった。

1994年発表のアルバム『パークライフ』、1995年発売の『ザ・グレイト・エスケープ』で、英国的音楽のムーブメントは最高潮に達して「ブリットポップ」ブームが沸き起こり、デーモンは一躍シーンの中心人物となる。クラシックの素養を感じさせるポップな音楽性と三人称を主語としたシニカルで物語風の作詞技法、派手なライブパフォーマンス、愛用のフレッド・ペリーのポロシャツや、アディダスナイキを小奇麗に着こなすモッズ風のファッションから、「ネオ・モッズ」のアイコンとして人気を博し、その甘いルックスから、当時日本でもファッション雑誌の特集にも多く登場していた。

デーモン自身も当時は「ポップな人」をキーワードに自身のアイデンティティを追求していったが、ブラーより少し遅れてブレイクをしたオアシスとの対立[4]や、マスコミの執拗な狂騒からパニック障害を患うなど、精神的に疲弊をきたしてまう。ローファイな音楽志向であったグレアムとも、あまりにもポップになったブラーの音楽性を巡って、対立するようにもなる。ロスキルド・フェスティバルでのデーモン(左)(1999年7月)

しかしその後、アイスランドレイキャビークに家を買ってブリットポップ狂騒から離れ、疎遠状態にあったグレアムと手紙をやり取りをしてお互いの仲を取り戻しつつ、今後のバンドの方向性を確かめあった。またこの頃からアメリカのオルタナティブ・ロックやヒップホップ・シーンにも接近するようになる。そして1997年発表の商業的自殺と呼ばれたアルバム『ブラー』では「ブリットポップは死んだ」との発言とともに、アメリカのオルタナティヴ・ロックの影響を背景とした、それまでのポップなブラーのイメージをかなぐり捨てるような実験的で野心的な作品を発表。新たなファンを獲得し、この作品によってデーモンはアーティスティックな面でも正当に評価されるようになる。

「英国的なもの」にこだわらなくなったデーモンは、この後活動の幅を飛躍的に広げるようになり、1998年、長年のガールフレンドだったエラスティカのジャスティーン・フリッシュマンとの別れの後にフラットで共同生活をしていたコミック・アーティストのジェイミー・ヒューレットと、既存の商業音楽のアンチテーゼとして覆面カートゥーン・バンド、ゴリラズのプロジェクトを立ち上げ、様々なジャンルの曲を実験的にレコーディングした。1996年にすでに映画『トレインスポッティング』に個人名義で1曲を提供していたが、1999年には映画『ラビナス』で現代音楽の巨匠マイケル・ナイマンと映画音楽のサウンドトラック・アルバムを作り、グレアムに少し遅れてソロキャリアをスタート。2000年には『私が愛したギャングスター』、2001年には『101レイキャビーク』でも映画音楽を作っている。

また、かつて役者を目指していたこともあり、1997年にはロバート・カーライル出演の映画『フェイス』に出演を果たす。デーモン本人はあまりその出来に納得しておらず、自分は第一にミュージシャンとの自覚もあり、それ以降も出演のオファーが来ていたが断っている[5]
2000年代、ソロキャリア中心の時代ザ・グッド,ザ・バッド・アンド・ザ・クイーン(2007年)

1999年のブラーのアルバム『13』ではさらに実験性を増した作品を発表すると、2001年、本格始動させたゴリラズのデビュー・アルバムが大ヒットを記録。ブラーではなかなか達成できなかったアメリカ進出を果たす。2002年には、オックスファムの招待で2000年に訪れたマリで、現地のミュージシャンとともに録音していたアフリカ音楽のアルバムを発表する。しかし2001年に始めたブラーの『シンク・タンク』レコーディング時、グレアムと音楽性の相違を巡って仲たがいをし、グレアムはその後バンドを脱退する。

一方、ソロキャリアは順調であり、2005年のゴリラズのセカンド・アルバム『ディーモン・デイズ』が前作を上回る世界的な大ヒットを記録。2006年からは「LIVE 8」の向こうを張って「アフリカ・エクスプレス」という、西洋のミュージャンとアフリカのミュージャンのコラボレーション・イベントをスタートさせた。2007年に発表した新バンドのアルバム『ザ・グッド,ザ・バッド・アンド・ザ・クイーン』も大ヒットを記録。同2007年は、マンチェスター・インターナショナル・フェスティバルからのオファーで、西遊記を題材にしたオペラ作品の制作にも挑戦。中国音階を勉強して制作された翌年リリースのサウンドトラックのアルバム『モンキー:ジャーニー・トゥー・ザ・ウエスト』は、中国音楽と現代音楽の融合が見られる異色の作品であったが、全編中国語のヴォーカルの作品としては史上最高位となる全英5位を獲得している[6]。またこの間の他アーティストへの楽曲提供や、プロデュース、ボーカル参加は数多に上るなど精力的にキャリアを積み上げ、2012年ロンドン・オリンピック開会式の総合監督の候補に名前が挙がるなど、アーティストとしての評価が高まっていった。

また絶縁状態にあったグレアムとの関係も徐々に修復を見せ、グレアムが「アフリカ・エクスプレス」や「モンキー」のオペラの客席に姿を現していることが確認されたりと、バンドが再始動するのではとの噂が囁かれていった。そして2008年12月、二人は和解し[1]、ブラーが再活動することが正式に発表された。2009年にはグラストンベリー・フェスティバルハイド・パークでブラーの復活ライブを行い、復活を待ちわびたオーディエンスを熱狂と感動の渦に巻き込んだ。
2010年代

2010年にはゴリラズのアルバム『プラスティック・ビーチ』をリリースし、世界規模のツアーも敢行した。同年12月、ツアー終了と同時に、ツアー中の隙間時間にipadで製作したというアルバム『ザ・フォール』をリリースした。

2011年は、オックスファム企画のコンゴ民主共和国救済のためのチャリティアルバム、『キンシャサ・ワン・ツー』を他のミュージシャンとコンゴで1週間でレコーディングしてリリースしたり、長年温めてきた企画であったエリザベス朝時代の魔術師・錬金術師、ジョン・ディーを題材にしたオペラ『ドクター・ディー』の制作を主に音楽面で担当。デーモンも本人役で出演し、翌2012年にはオペラの音楽をもとに同名のアルバム『ドクター・ディー』を、スタジオ・アルバムとしては初めてデーモンのソロ名義でリリースした。また同2012年は、レッド・ホット・チリ・ペッパーズフリートニー・アレンと新バンド、ロケット・ジュース・アンド・ザ・ムーンを結成してアルバムを発表した他、ソウル・シンガー、ボビー・ウーマックの18年ぶりのスタジオ・アルバム、『ザ・ブレイヴェスト・マン・イン・ザ・ユニヴァース』の共同プロデューサーを務め、高い評価を得た。2013年はブラーのワールド・ツアーをこなす傍らソロ・アルバムを制作。『エヴリデイ・ロボッツ』と題された同アルバムは2014年4月に発売され、同年のマーキュリー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされた。

2014年11月ごろから、前述のワールド・ツアー中に香港で録音していた音源を基にブラーのアルバム制作を始め、2015年4月、ブラー再結成後初となる12年ぶりのスタジオ・アルバム、『ザ・マジック・ウィップ』をリリースした。また、同年7月にマンチェスター国際芸術祭で上演された「不思議の国のアリス」を基にしたミュージカル、「ワンダー・ドット・ランド」の音楽制作を担当した。


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