1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンに、ケント出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリー(Margaret Mary、1913年 - 2001年)と、ヨークシャー出身で子供のためのチャリティー団体バーナード・ホームズ(英語版)で広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズ(Haywood Stenton Jones、1912年 - 1969年)[10]の間に生まれた。一家は、ブリクストンとストックウェル(英語版)の境界に近い、40 Stansfield Roadに住み、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていたが、1953年に一家はブロムリーの郊外に引っ越す。
子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、プラターズ、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しむ[11][12]。異父兄であるテリー・バーンズ(Terry Burns)の影響でモダンジャズに関心を持ち、特にチャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれた。14歳になった1961年に、母親からプラスチック製のアルト・サックスを贈られ、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受ける[13]。
1962年、ボウイは15歳の時に重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッド(英語版)が左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になった[14]。結果として医師は、ボウイの視力は完全に回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認した。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、先天性の虹彩異色症によるものである。この一件にもかかわらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作した[15]。
同年、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、彼にとっての最初のバンド「コンラッズ(Konrads)」を結成した。このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式であった。バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、その中にはガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居た[16]。
1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ(Davie Jones with The King Bees)」名義で最初のシングル「リザ・ジェーン(Liza Jane)」を発表[17]。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ(The Manish Boys)」「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード(Davy Jones & The Lower 3rd)」[18]などと名を変えたが、モンキーズのボーカリストであるデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから[19]、1966年4月のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた「デヴィッド・ボウイ」が芸名として定着することになる。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイ・ナイフから取られた[20]。デビュー当時のボウイ (1967年9月)