デヴィッド・ボウイ
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2017年、遺作となった作品『ブラックスター(★)』が、グラミー賞で最多の5部門を獲得した[31]
人物[ソースを編集]
音楽家としてのボウイ[ソースを編集]故郷ロンドンにあるジギー・スターダストの碑標

名声を得たミュージシャンは、自分の音楽性を維持するために保守的になる場合も多いが、ボウイの場合はスタイルを変化させることで、音楽性の変化を繰り返し、それぞれの時期において変容を繰り返した。時代ごとに個性的なミュージシャン達とコラボレーションを行い、他のジャンルのアーティスト達とも積極的に交流する柔軟さも持っていた。音楽メディアから商業主義との批判も受けたが、生涯意欲的な創作を続けた。1970年代1980年代以降のミュージック・シーンは、なにかしらボウイの音楽的影響を受けているミュージシャンも存在する。モット・ザ・フープルイギー・ポップルー・リードジャパンや、デヴィッド・バーンカルチャー・クラブヴィサージスパンダー・バレエデュラン・デュラントレント・レズナーらが影響を受けてきた。また、セールス的に成功し、死後のロックスターとしての遺産はきわめて巨額だった。アーティスティックな面と、商業的利益をうまく両立させたミュージシャンとも言える。

1973年に初の日本公演を果たしている。ボウイは飛行機恐怖症であったことから、来日に際してはアメリカ合衆国から船で来日し、イギリスへの帰国の時も横浜港からナホトカ航路を経由してウラジオストクからシベリア鉄道に乗車したという逸話もある[32]

2000年大英帝国勲章コマンダーを、2003年に大英帝国騎士号をそれぞれ叙勲辞退しているが[32][33]1999年にフランス政府より授与された芸術文化勲章コマンドールは受章している[32]
役者としてのボウイ[ソースを編集]ハリウッドにあるボウイの「名声の歩道」

ボウイの初めてのメジャーな映画出演は『地球に落ちて来た男』であり、それは演劇『エレファント・マン』同様の賞賛をもたらした。この作品での演技が評価されて、第4回サターン賞主演男優賞を受賞した。それ以前の映画出演としては、1969年の前衛映画にパントマイムとして出演している。以降の役者としての経歴は散発的なものであった。1983年大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』に英軍将校ジャック・セリアズ役で出演した。1984年に『眠れぬ夜のために』で殺し屋の端役を、マーティン・スコセッシ監督の『最後の誘惑』ではピラトを演じた。

『戦場のメリークリスマス』は一部の批評家に感銘を与えた。しかし次作のロック・ミュージカル『ビギナーズ(英語版)』(1986年)は失望と非難の的となった。同年彼はジム・ヘンソン監督の『ラビリンス/魔王の迷宮』でゴブリンの王ジャレスを演じた。

彼は『ハンガー』でカトリーヌ・ドヌーヴスーザン・サランドンと共演し、『バスキア』ではアンディ・ウォーホル役を演じた。『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』ではミステリアスなFBI捜査官フィリップ・ジェフリーズ役で出演した。

ボウイは2002年BBC100名の最も偉大な英国人』の中でデビッド・ベッカムウィンストン・チャーチルジョン・レノンといった人物と並んで選出された。
思想[ソースを編集]

過去の《バウンス》誌によれば、ボウイは60年代ヒッピーに激怒したことがある。ボウイはヨーロッパの芸術、貴族への憧憬を持ち続けた。それがエスカレートしたのか、70年代ファシズム支持発言をしている。1974年にボウイは「イギリスはファシズムのリーダーになる用意がある[34]」との問題発言をおこなった。後にファシズムへの傾倒は「浮気」だったこと等を、明かしている。1976年の《プレイボーイ》誌のインタビューでは「ロック・スターは皆、ファシスト」「ヒットラーはロック・スターだった[34]」と再度の問題発言をしている。同時期に、エリック・クラプトン人種差別的な発言をしており[注 2]、そうしたクラプトンやボウイの問題発言に激しく反発した若者を中心とする人々は、「ロック・アゲインスト・レイシズム(英語版)」の運動を実施した[38]

1980年代以降、ボウイは反人種差別と反ファシズムに急激にシフトした。1983年、MTVのアンカーマーク・グッドマン(英語版)とのインタビューで[39][40]、ボウイはMTVが黒人ミュージシャンのミュージックビデオをゴールデンタイムに全くオンエアしないことを批判し、グッドマンが理由の1つとして「アメリカ中西部の市民にはTVに黒人が映るとびっくりする人たちがいるため配慮している」と述べた際に目に見えて不快になった。『チャイナ・ガール』と『レッツ・ダンス』のミュージックビデオは、ボウイによって人種差別に対する「非常に単純で非常に直接的な」意見の表現だとされた。
親日家[ソースを編集]ジギー・スターダスト時代の衣装(左2つ)と、シリアス・ムーンライト・ツアーで使用された衣装(右)

デヴィッド・ボウイが大の日本好きであったことはよく知られている[41][42]

ボウイが日本文化に興味を持ち始めたのはロンドンで、1960年代に舞踊家リンゼイ・ケンプのダンス・スクールに通っていた時であった[43]衣笠貞之助の無声映画に影響を受けたことを自認するケンプは、生徒のボウイに武満徹を聴かせ、共に日本の伝統芸能歌舞伎を研究した[43]1967年チベット仏教僧侶になろうと本気で考えていたボウイであったが、ケンプのレッスンをきっかけとして、黙想に生きる僧侶とは正反対の、ロック・スターという派手やかな歌舞音曲の世界へと、人生の進路が決まった[43]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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