1962年、ボウイは15歳の時に重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッド(英語版)が左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になった[14]。結果として医師は、ボウイの視力は完全に回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認した。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、先天性の虹彩異色症によるものである。この一件にもかかわらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作した[15]。
同年、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、彼にとっての最初のバンド「コンラッズ(Konrads)」を結成した。このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式であった。バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、その中にはガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居た[16]。
1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ(Davie Jones with The King Bees)」名義で最初のシングル「リザ・ジェーン(Liza Jane)」を発表[17]。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ(The Manish Boys)」「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード(Davy Jones & The Lower 3rd)」[18]などと名を変えたが、モンキーズのボーカリストであるデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから[19]、1966年4月のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた「デヴィッド・ボウイ」が芸名として定着することになる。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイ・ナイフから取られた[20]。デビュー当時のボウイ (1967年9月)
1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『イメージ(英語版)』(1969年、イギリス)[21]に出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っている。ボウイはロンドン・ダンス・センター(英語版)でのケンプのダンス・クラスに習い、ケンプの下でコンメディア・デッラルテなどから学んだアバンギャルドとパントマイムによってドラマティックな表現を身につけた。
1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ[注 1]』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリースした。
グラム・ロック時代[ソースを編集]グラムロック時代
1970年、ミック・ロンソンをサウンド面での盟友に迎え『世界を売った男』をリリース。歌詞に哲学・美学の要素が含まれるようになり、1971年のアルバム『ハンキー・ドリー』でその路線は更に深まり、歌詞にも哲学・美学の要素が強く表れるようになった。
ミック・ロンソンが後に加入することになるグラムロックバンドのモット・ザ・フープルは1972年3月、解散危機に直面し、ボウイはモット・ザ・フープルに「すべての若き野郎ども」を提供、同バンドの楽曲として大ヒットした。
1972年6月、コンセプト・アルバム『ジギー・スターダスト』をリリース。コンセプトに基づいて架空のロックスター「ジギー・スターダスト(Ziggy Stardust)」を名乗り、そのバックバンドである「スパイダーズ・フロム・マーズ(The Spiders from Mars)」を従え、世界を股に掛けた1年半もの長いツアーを組んだ。初期はアルバムの設定に従ったものだったが、徐々に奇抜な衣装(山本寛斎の衣装も多く取り上げている)、奇抜なメイクへと変貌していった。アメリカツアーの最中に録音された『アラジン・セイン』は、「ジギー・スターダスト」を演じるボウイというよりは、「ジギー・スターダスト」というアーティストそのもののアルバムになった。しかし、1973年7月3日のイギリスでの最終公演を最後に、ボウイはこの架空のロックスター「ジギー・スターダスト」の終焉を宣言した。この時期、後に歌手としてデビューするチェリー・バニラが、ボウイの広報を担当していた。
「ジギー・スターダスト」を演じることをやめ、一息ついたボウイは、子供の頃好んで聞いていた楽曲を中心に構成したカバーアルバム『ピンナップス』を発表し、それを最後にジギー・スターダスト時代の唯一の名残であるバックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を解散させ、盟友のミック・ロンソンとも離れることになった。ただ、ロンソンとは決別した後も、連絡を取り合う関係だった。
アメリカ時代[ソースを編集]アメリカ時代 (1974年2月)
1974年、そのような状況の中で、心機一転、原点回帰して、アルバムを制作することになった。作詞の際にウィリアム・バロウズが一躍有名にした「カット・アップ」の手法を導入したコンセプト・アルバム『ダイアモンドの犬』を発表する。ジョージ・オーウェルのSF小説『1984年』をモチーフに作られたアルバムだったが、オーウェルの遺族から正式な許可が下りず、「『1984年』という言葉を大々的に使用してはならない、『1984年』の舞台化も許さない」という制約で縛られることになった。1974年6月に始めた北米ツアーでは、ロック史上空前の巨大な舞台セットを導入し、絶賛されたが、相次ぐ機材のトラブル、ボウイの体調不良などで、2ヶ月程度でツアーは中断することになった。
1975年、カルロス・アロマー(英語版)を盟友に迎え、『ヤング・アメリカンズ』を発表する。全米1位を獲得したジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」を含むこのアルバムは、フィリー・ソウルからさらに一歩踏み込み「白人はいかに黒人音楽のソウルフルさに近づけるか」というコンセプトで作られた。このアルバムの直後、初の主演映画『地球に落ちて来た男』がクランクインした。
1976年、自らの主演映画の内容に影響を受け、長年の薬物使用/中毒で精神面での疲労が頂点に達していたボウイは、自らのアイデンティティを見直す作業を余儀なくされた。それは、前作と裏返しの「白人である私、ヨーロッパ人である私はいかに黒人音楽を取り入れるべきか」という方向に変わり、コンセプト・アルバム『ステイション・トゥ・ステイション』として結実した[22]。
ベルリン時代[ソースを編集]ベルリン時代 (1978年6月)
ボウイは再び架空のキャラクター「シン・ホワイト・デューク(Thin White Duke、痩せた青白き公爵)」を名乗り、それを演じた。ドイツでのライブはナチズムを強く意識したステージ構成になった。インタビューでは「自分はファシズムを信じている」「ヒトラーは最初のロックスター」などの擁護発言を行ない、ファンの前でジークハイルを見せた写真が掲載される騒動が起き、メディアから激しいバッシングを受け、危険人物とみなされることも多かった[23]。同じく1970年代後半にエリック・クラプトンが差別発言を行った(ボウイとクラプトンの発言については、下段の思想欄を参照)。ツアーの終了後、薬物からの更生という目的も兼ねてベルリンに移住し、ひそやかに音楽作りを始めた。
1977年から1979年にかけてブライアン・イーノとのコラボレーションで制作されたアルバム『ロウ』『英雄夢語り』『ロジャー』は、のちに「ベルリン三部作」と呼ばれることになる。