10代の時にオレゴン州に移り、現地の高校を卒業。18歳の頃から8mmカメラを用いて映画を撮り始める。
1980年からILMのアニメーターとして働き、1984年まで所属した。
1986年、映像制作会社「Propaganda Films」を設立。マドンナ、ジョージ・マイケル、エアロスミス、ローリング・ストーンズなどのミュージック・ビデオや、数多くのCMを手掛けた。
1992年、『エイリアン3』で映画監督デビュー。だが、この作品は撮影中から様々なトラブルに見舞われ、完成した作品もスタジオ側に再編集されていることから、本人は自作として認めていない[6]。また、長編デビュー作が批評家から酷評され興行的にも失敗したことで意気消沈し、「新たに映画を撮るくらいなら、大腸癌で死んだ方がマシだ」と述べて、1年半の間に送られてきた脚本を全く読まなかった。
1995年、ブラッド・ピット、モーガン・フリーマンを主演に起用し、自身としては監督復帰作となったサスペンス映画『セブン』が公開される。衝撃的なストーリーと際立った演出が高く評価された上に興行的にも成功したことにより、一躍注目されるようになる。その後、『ファイト・クラブ』(1999年)で再びピットとタッグを組んだものの、公開当時は批評家から暴力性を酷評され、国内興行でも失敗。しかし、21世紀に入ってから再評価されるようになり、カルト的人気を誇るようになった。
2008年にはピットと3度目のタッグとなった『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』で、自身としては初のアカデミー監督賞にノミネートされる。
2010年にはマーク・ザッカーバーグの半生を描いた『ソーシャル・ネットワーク』が批評的、興行的ともに大成功を収め、その評価の高さから「21世紀の市民ケーン」とまで評されたが、2度目のノミネートとなっていたアカデミー監督賞の受賞までには至らなかった。
その後も『ドラゴン・タトゥーの女』(2011年)、『ゴーン・ガール』(2014年)といったサスペンスとサイコホラーが入り混じった映画を次々と監督し、批評家、観客双方から高い評価を獲得していく。
2020年、Netflixと4年間にわたる独占契約を締結[7]。その第一弾として父の遺稿である『Mank/マンク』を監督し、3度目のアカデミー監督賞ノミネートを受けた。 完全主義者として知られており、ひとつのシーンの撮影のために、俳優に100回以上のリテイクを出すことも珍しくない[8]。 『セブン』、『ファイト・クラブ』、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の3作品で、ブラッド・ピットを主演に起用した。 映画公開年題名備考
作風
作品
1992エイリアン3
Alien3
1995セブン
Seven
1997ゲーム
The Game
1999ファイト・クラブ
Fight Club
2002パニック・ルーム
Panic Room
2007ゾディアック
Zodiac
2008ベンジャミン・バトン 数奇な人生
The Curious Case of Benjamin Button
2010ソーシャル・ネットワーク
The Social Network
2011ドラゴン・タトゥーの女