ゲフィンの初仕事は彼らのレコーディング契約の獲得だった。スティーヴン・スティルスは『スーパー・セッション』(1968年)でコロムビア・レコードからそこそこの金をもらい、グレアム・ナッシュはコロムビア傘下のエピック・レコードとすでに契約を交わしていた。バーズとしてコロムビアと契約していたデヴィッド・クロスビーは、グループ脱退後、同社から関係を解消されていたが、ゲフィンの頭にあったのはコロムビアであった。スティルスをアトランティック・レコードの契約から解放するために、彼は同社に接触し、プロデューサー兼共同会長のジェリー・ウェクスラーとの面会を設定した。この打ち合わせでゲフィンはウェクスラーのオフィスから文字どおりつまみ出された。しかし翌日、ゲフィンの元へ同社の創設者アーメット・アーティガンから電話がかかる。アーティガンは反対にゲフィンを説得し、アトランティックとクロスビー・スティルス&ナッシュとの契約を成立させた。これによりレーベル間で交換がなされ、バッファロー・スプリングフィールドの元メンバーふたり、リッチー・フューレイとジム・メッシーナはコロムビアに行き、ポコを結成することとなった[2]。 1970年に新人としてジャクソン・ブラウンをアトランティック・レコードと契約する際に、アトランティック・レコードはゲフィンにレーベルを設立することを勧め、その資金を半分出した。これがアサイラム・レコードである。 アサイラム・レコードはジャクソン・ブラウンの他、イーグルス、J.D.サウザーなどの新人を送り出すと共に、リンダ・ロンシュタットやジョニ・ミッチェルを他レーベルから移籍させ、大成功を得る。一時的だがボブ・ディランと契約していたこともある。1973年にアサイラム・レコードはエレクトラ・レコードと合併し、ゲフィンは新会社エレクトラ/アサイラムの社長となった。 1975年にはグループ企業のワーナー・ブラザースに転出するが、間もなく病気療養の為に一時引退。1980年に業界に復帰した彼は、ゲフィン・レコードを設立。長らく引退状態にあったジョン・レノンの『ダブル・ファンタジー』を送り出し、再び華々しい成功を収める。その後も、エルトン・ジョンやエアロスミスといった大御所を他社から引き抜くと共に、ニルヴァーナ、ガンズ・アンド・ローゼズ、ベックといった若手をブレイクさせた。 また、ゲフィン・レコードに続いてゲフィン・フィルムズ 1990年にゲフィン・レコードをMCAに売却。業界紙が選ぶエンターテイメント業界の実力者(power101)の10位にランキングされた1994年にはスティーヴン・スピルバーグ(4位)、ジェフリー・カッツェンバーグ(9位)と共にドリームワークスSKGを設立した(2008年に同社を離脱)。 1996年にロサンゼルス現代美術館(MOCA)に500万ドルを寄付し、新館「テンポラリー・コンテンポラリー
アサイラム・レコードを設立
ゲフィン・レコード時代
ドリームワークス設立後
エピソード
ゲイであることを公言している。一時キアヌ・リーブスと「結婚」するという誤った噂も流れた。
ジョニ・ミッチェルの1974年のヒット曲「パリの自由人」の「自由人(Free Man)」とはゲフィンのことを指している[3]。
脚注^ “ ⇒David Geffen Biography (1943-)”. Filmreference.com. 2017年3月28日閲覧。
^ a b ピーター・ドゲット 著、川村まゆみ 訳『CSNY――クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの真実』DU BOOKS、2020年6月26日、176-178頁。
^ Free Man in Paris by Joni Mitchell Songfacts