デンバー_(コロラド州)
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この時代は、地元ではカーネーション・ゴールド・ラッシュと呼ばれている[20] デンバー市街地の着色写真(1898年

1901年、コロラド州議会はアラパホ郡を、デンバー市郡、アダムズ郡、およびサウスアラパホ郡(現アラパホ郡)の3つに分割する法案を可決した。翌1902年にはこの法案が州全土で行われた住民投票を通過し、デンバー市郡が成立、州憲法も修正された。その翌々年、1904年には、デンバー市郡憲章が可決された。しかしその後もこの法案をめぐる法廷闘争は続き、最終的な決着を見たのは1916年であった[21]

20世紀初頭、全米の他都市と同様、デンバーにも真鍮時代の自動車会社があった。コルバーン自動車会社は、1906年に創業し、1911年には廃業した短命の会社であったが、当時流行であったメーカーの1つであったルノーコピー車を製造していた[22]デンバーのダウンタウン(1964年サクラ・スクエア

第二次世界大戦の最中、1939-42年にコロラド州知事を務めたラルフ・ローレンス・カーは、強制収容西海岸から追放同然に強制移住させられた日系人をコロラドに暖かく迎え入れた。終戦後、1947年には、1900年頃からデンバーのダウンタウンにあった日系人集住地区の一角に、トライステート・デンバー仏教寺院が建てられた。1969年のダウンタウン再開発によって日本人集住地区の多くは失われたが、仏教寺院のある、19thストリート、20thストリート、ラリマー・ストリート、およびローレンス・ストリートに囲まれた1ブロックだけは残された。1973年、このブロック内、19thストリートとラリマー・ストリートの東角に、サクラ・スクエアという小公園と文化センターが設けられた。1976年には、サクラ・スクエアの小公園内に、日系人がカーの功績を称える銅像を立てた[23][24]ロッキーフラッツ跡地(1995年7月)

1953-89年にかけて、デンバーの北西郊約15マイル(24km)に立地していたエネルギー省核兵器製造施設、ロッキーフラッツでは、核弾頭に用いる核分裂性物質プルトニウム製のピットを製造していた。この施設では1957年および1969年[25]に大規模な火災が起きたほか、1958-68年にかけて放射性廃棄物から放射能がだだ漏れ状態となっており、デンバー市域の一部を含む周辺地域に放射性物質プルトニウム239による汚染が広がった[26]。ジェファーソン郡保健局長を務めるカール・ジョンソン博士による1981年の研究では、放射能汚染と、デンバー中心部およびロッキーフラッツにおける先天性疾患および発がんの関連性が示され、後続の研究によって裏付けられた[27][28]。施設跡地周辺には、2010年代に入ってもなお、プルトニウムによる放射能汚染が残っており[29]、完成するとデンバーの環状線西側をなすジェファーソン・パークウェイの建設を進めるにあたっても危険要因となっている[30]オリンピック反対運動を率いたリチャード・ラムは、のちにコロラド州の州知事を務めた。[31]

1970年、デンバーは1976年冬季オリンピック開催地に決定し、そのまま開催されればコロラド州昇格100周年祝賀会と同時開催になるはずであった[31]


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