1880-95年にかけて、デンバーでは犯罪組織のボス、ソーピー・スミスが暗躍し、市議員や警察と癒着して選挙やギャンブル、ギャングを牛耳り、市当局は腐敗していた[15]。しかしそうした状況の中、1887年、デンバーの貧困層の助けとなるべく、地元宗教リーダーが募金を集め、後にユナイテッド・ウェイとなる慈善団体を設立した[16]。1890年の国勢調査では、デンバーは人口106,713人を数え、オマハ以西ではサンフランシスコに次ぐ大都市となった[17]。
また、1880年代から1930年代にかけて、デンバーでは花卉産業が発展し、栄えた[18][19]。この時代は、地元ではカーネーション・ゴールド・ラッシュと呼ばれている[20] デンバー市街地の着色写真(1898年)
1901年、コロラド州議会はアラパホ郡を、デンバー市郡、アダムズ郡、およびサウスアラパホ郡(現アラパホ郡)の3つに分割する法案を可決した。翌1902年にはこの法案が州全土で行われた住民投票を通過し、デンバー市郡が成立、州憲法も修正された。その翌々年、1904年には、デンバー市郡憲章が可決された。しかしその後もこの法案をめぐる法廷闘争は続き、最終的な決着を見たのは1916年であった[21]。
20世紀初頭、全米の他都市と同様、デンバーにも真鍮時代の自動車会社があった。コルバーン自動車会社は、1906年に創業し、1911年には廃業した短命の会社であったが、当時流行であったメーカーの1つであったルノーのコピー車を製造していた[22]。デンバーのダウンタウン(1964年)サクラ・スクエア
第二次世界大戦の最中、1939-42年にコロラド州知事を務めたラルフ・ローレンス・カーは、強制収容で西海岸から追放同然に強制移住させられた日系人をコロラドに暖かく迎え入れた。終戦後、1947年には、1900年頃からデンバーのダウンタウンにあった日系人集住地区の一角に、トライステート・デンバー仏教寺院が建てられた。1969年のダウンタウン再開発によって日本人集住地区の多くは失われたが、仏教寺院のある、19thストリート、20thストリート、ラリマー・ストリート、およびローレンス・ストリートに囲まれた1ブロックだけは残された。1973年、このブロック内、19thストリートとラリマー・ストリートの東角に、サクラ・スクエアという小公園と文化センターが設けられた。1976年には、サクラ・スクエアの小公園内に、日系人がカーの功績を称える銅像を立てた[23][24]。ロッキーフラッツ跡地(1995年7月)
1953-89年にかけて、デンバーの北西郊約15マイル(24km)に立地していたエネルギー省の核兵器製造施設、ロッキーフラッツでは、核弾頭に用いる核分裂性物質プルトニウム製のピットを製造していた。