デンバー
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デンバー・ポスト社屋に立つ「コロラド開拓者の母たち」像 コロラド州会議事堂敷地内に立つブロンコ・バスター像

1860年代末には既に、デンバーの住民は活気のある供給・サービスセンターをこの地に確立した、その成功に誇りを持っていたものの、その一方で、アメリカ合衆国史上最初の大陸横断鉄道がデンバーではなく、そのはるか北のシャイアンを通ることが決まると、この若い町の将来を案ずるようになった。100マイル(160km)離れたこの地で、住民は大陸横断鉄道とデンバーを結ぶ鉄道の建設を求めて運動を起こした。やがて準州知事ジョン・エバンズをはじめ、デイビッド・モファットやウォルター・チーズマンが先頭に立って、その資金集めが始まった。開始からわずか3日で300,000ドルが集まり、住民は楽観的になった。しかし、その後十分な資金が集まらないうちに手を抜いたので、エバンズらリーダーたちは借金まみれで鉄道事業を進めていかざるを得なくなった。こうした困難にもかかわらず、1870年6月24日、大陸横断鉄道につながるデンバー・パシフィック鉄道が開通し、住民は歓喜に沸いた[12]ブラウン・パレス・ホテル

国内他地域と鉄道でつながったことで、デンバーはサービス・供給センターとして栄えていった。この若い町は急成長し、百万長者を惹きつけ豪邸が建ち並ぶようになった一方で、貧困や犯罪も広がった。住民は富豪たちがデンバーを選んだことを誇りに思い、その中の1人、レッドビルの銀山王ホレイス・テイバーが、16thストリートとラリマー・ストリートの角のブロックにビジネス街を造ると共に、テイバー・グランド・オペラハウスを建てたことに興奮した。その後、ブラウン・パレス・ホテルのような高級ホテルや、クローク・パターソン・キャンベル邸やモファット邸のような百万長者の邸宅が建てられていった[13]。デンバーを世界の素晴らしい都市の1つに変貌させるべく、リーダーたちは産業を誘致し、工場で働く労働者を集めた。ほどなくして、デンバーはエリート層や大勢の中流階級に加えて、ドイツ系、イタリア系、中国系の労働者、後にアフリカ系やスペイン語姓の労働者の人口が急増した。しかし、こうした流入にまだ備えがない中、1893年に起きた銀価格暴落に端を発する地域経済不況によって、デンバーの地域政治・社会・経済のバランスは崩壊し、腐敗や犯罪に加えて、赤狩りクー・クラックス・クランの台頭など、民族間の確執が高まった[14]

1880-95年にかけて、デンバーでは犯罪組織のボス、ソーピー・スミスが暗躍し、市議員や警察と癒着して選挙やギャンブル、ギャングを牛耳り、市当局は腐敗していた[15]。しかしそうした状況の中、1887年、デンバーの貧困層の助けとなるべく、地元宗教リーダーが募金を集め、後にユナイテッド・ウェイとなる慈善団体を設立した[16]1890年の国勢調査では、デンバーは人口106,713人を数え、オマハ以西ではサンフランシスコに次ぐ大都市となった[17]

また、1880年代から1930年代にかけて、デンバーでは花卉産業が発展し、栄えた[18][19]。この時代は、地元ではカーネーション・ゴールド・ラッシュと呼ばれている[20] デンバー市街地の着色写真(1898年

1901年、コロラド州議会はアラパホ郡を、デンバー市郡、アダムズ郡、およびサウスアラパホ郡(現アラパホ郡)の3つに分割する法案を可決した。翌1902年にはこの法案が州全土で行われた住民投票を通過し、デンバー市郡が成立、州憲法も修正された。その翌々年、1904年には、デンバー市郡憲章が可決された。しかしその後もこの法案をめぐる法廷闘争は続き、最終的な決着を見たのは1916年であった[21]

20世紀初頭、全米の他都市と同様、デンバーにも真鍮時代の自動車会社があった。コルバーン自動車会社は、1906年に創業し、1911年には廃業した短命の会社であったが、当時流行であったメーカーの1つであったルノーコピー車を製造していた[22]デンバーのダウンタウン(1964年サクラ・スクエア

第二次世界大戦の最中、1939-42年にコロラド州知事を務めたラルフ・ローレンス・カーは、強制収容西海岸から追放同然に強制移住させられた日系人をコロラドに暖かく迎え入れた。終戦後、1947年には、1900年頃からデンバーのダウンタウンにあった日系人集住地区の一角に、トライステート・デンバー仏教寺院が建てられた。1969年のダウンタウン再開発によって日本人集住地区の多くは失われたが、仏教寺院のある、19thストリート、20thストリート、ラリマー・ストリート、およびローレンス・ストリートに囲まれた1ブロックだけは残された。1973年、このブロック内、19thストリートとラリマー・ストリートの東角に、サクラ・スクエアという小公園と文化センターが設けられた。1976年には、サクラ・スクエアの小公園内に、日系人がカーの功績を称える銅像を立てた[23][24]ロッキーフラッツ跡地(1995年7月)

1953-89年にかけて、デンバーの北西郊約15マイル(24km)に立地していたエネルギー省核兵器製造施設、ロッキーフラッツでは、核弾頭に用いる核分裂性物質プルトニウム製のピットを製造していた。この施設では1957年および1969年[25]に大規模な火災が起きたほか、1958-68年にかけて放射性廃棄物から放射能がだだ漏れ状態となっており、デンバー市域の一部を含む周辺地域に放射性物質プルトニウム239による汚染が広がった[26]。ジェファーソン郡保健局長を務めるカール・ジョンソン博士による1981年の研究では、放射能汚染と、デンバー中心部およびロッキーフラッツにおける先天性疾患および発がんの関連性が示され、後続の研究によって裏付けられた[27][28]。施設跡地周辺には、2010年代に入ってもなお、プルトニウムによる放射能汚染が残っており[29]、完成するとデンバーの環状線西側をなすジェファーソン・パークウェイの建設を進めるにあたっても危険要因となっている[30]オリンピック反対運動を率いたリチャード・ラムは、のちにコロラド州の州知事を務めた。[31]

1970年、デンバーは1976年冬季オリンピック開催地に決定し、そのまま開催されればコロラド州昇格100周年祝賀会と同時開催になるはずであった[31]。だが、市民たちから自然環境に対する影響と高額な開催費用への懸念の声が相次ぎ、地元の政治家リチャード・ラム(英語版)による反対運動が展開された[31]。そして、1972年11月に高額な開催費用を賄うための公的資金投入が州の住民投票で否決され、デンバーでの開催は断念せざるを得なくなった[31]。その4ヶ月後、IOCは急遽、1976年冬季オリンピックの開催地を、1964年の開催地で、開催のための施設やインフラも整っていたオーストリアチロル州インスブルックに移した[32][33]。また、デンバーは2022年冬季オリンピックの開催地選考への立候補の可能性を模索したが、アメリカ合衆国オリンピック委員会が同大会に立候補しなかった[34]


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