デンバー
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20世紀後半以降には市郡南部に大規模なハイテク企業団地の開発が進められ、また高地という地理的条件も相まって通信産業が発展している。

公式には、デンバーは標高1マイル(5,280フィート/1,609メートル)にあるとされ、Mile High City(標高1マイルの街)と呼ばれる。コロラド州会議事堂の正面玄関階段やクアーズ・フィールドでは、「標高1マイル」にあたる段や座席が区別されている。また、エンパワー・フィールド・アット・マイル・ハイのように、その名に「マイル・ハイ」とつくものも数多くある。地元雑誌社の1つである「5280」の誌名及び社名も、デンバーの標高である「5,280フィート」にちなんでいる[6]
歴史

今日のデンバーがあるロッキー山脈東麓のグレートプレーンズ西縁のこの地には、ヨーロッパ人の入植が始まる以前には様々なネイティブ・アメリカンの部族が散住していた。16-17世紀には、この地には主にユート族アパッチ族が住んでいた。19世紀前半には、シャイアン族アラパホ族がこの地で冬を越していた[7]デンバーの名の由来となった元カンザス準州知事ジェームズ・W・デンバーは、1875年および1882年の2回、市を訪れた。

1858年夏、パイクスピークのゴールドラッシュの最中、カンザス準州ローレンスからやってきたの探鉱者たちは、準州西部のサウスプラット川沿いのこの地にモンタナシティという名の鉱山町を創設した。このモンタナシティが、後にデンバー市となるこの地における最古の入植地であった。しかし、この入植地は長くは保たず、その下流にオーラリアやセントチャールズシティといった鉱山町が創設されると、翌1859年夏には放棄された[8]

1858年11月22日、カンザス準州東部からこの地にやってきた土地投機家ウィリアム・ラリマー・ジュニアは、オーラリアの対岸、セントチャールズ町内の、サウスプラット川とチェリー・クリークの合流点を見下ろす崖上に、土地の所有権を主張すべく、ハコヤナギの丸太を置いた。そして、ラリマーは当時のカンザス準州知事ジェームズ・W・デンバーの機嫌を取るために、この町をデンバーシティと名付けた[9]。その後、今日のカンザス・コロラド州境から大陸分水嶺にわたる広大な、カンザス準州アラパホ郡の郡庁がデンバーシティに置かれた[7]。やがてラリマーは、新たな入植者を受け入れられる大都市を創ることを目論見て、セントチャールズ土地会社と共に、この町の区画を商人や鉱夫に売りさばいた。これら、初期に創設された町の跡地は、現在ではダウンタウンの北西に広がる、コンフルエンス公園になっている。

当時のデンバーシティは、地元の鉱夫相手のギャンブルや酒場、家畜や商品取引で地域経済を成り立たせていた、辺境の町であった。初期のデンバーシティでは、土地の区画はオーラリアの鉱夫に供与されたり、賭けられたりしていた[9]1859年5月、デンバーシティの住民はこの地域における最初の馬車道を確保するために、レブンワース・アンド・パイクスピーク急行に53区画の土地を寄付した。この道の開通で、それまでデンバーまで12日かかっていた行程を6日に短縮したレブンワース・アンド・パイクスピーク急行は、旅客、手紙、貨物、および金の輸送サービスを毎日提供した。1860年には、オーラリアがデンバーシティに合併し、ウェストデンバー地区に名を変えた[10]

1861年2月28日、カンザス準州の中部・東部がカンザス州として州に昇格すると、残ったもとのカンザス準州の西部に、周辺のネブラスカユタニューメキシコ各準州の一部を編入する形で、コロラド準州が創設された[11]。同年11月1日にはコロラド準州の郡としてのアラパホ郡が創設され、11月7日にはデンバーシティが法人化された。1867年にはコロラド準州の州都がゴールデンシティからデンバーシティに移された。1876年8月1日、コロラドは州に昇格した[11]デンバー・ポスト社屋に立つ「コロラド開拓者の母たち」像 コロラド州会議事堂敷地内に立つブロンコ・バスター像

1860年代末には既に、デンバーの住民は活気のある供給・サービスセンターをこの地に確立した、その成功に誇りを持っていたものの、その一方で、アメリカ合衆国史上最初の大陸横断鉄道がデンバーではなく、そのはるか北のシャイアンを通ることが決まると、この若い町の将来を案ずるようになった。


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