1994年にはマイナーリーグでの通算打率.344を残し、ベースボール・アメリカ・マイナーリーグ年間最優秀選手賞に選出された。
1995年に怪我で戦列を離れたトニー・フェルナンデスの代役としてメジャー昇格を果たし、5月29日のシアトル・マリナーズ戦でデビュー。13試合に出場し、打率.234・0本塁打・6打点の成績で6月11日にマイナーへ降格したが、9月3日にメジャー昇格を果たし、その後2試合に出場しシーズンを終えた[11]。
1996年は、1962年のトム・トレッシュ以来となるルーキーでの開幕スタメン遊撃手に抜擢され、ソロ本塁打を放つなど、クリーブランド・インディアンスからの勝利に貢献している[12]。9月5日から9月27日にかけて17試合連続安打を記録、新人選手としては球団史上ジョー・ディマジオの18試合に次ぐ最長記録となった[12]。この年にレギュラーに定着し、打率.314を残して新人王を満票で受賞[13]。同年のポストシーズンでも活躍し、ヤンキースにとって18年ぶりのワールドシリーズチャンピオン奪取に大きく貢献した。
1997年は159試合に出場し、打率.291、10本塁打、70打点だった。
1998年は、6月4日から初の故障者リスト入りとなり12試合に欠場した[14]が、復帰後の8月には50安打を放ち、球団史上ディマジオの53安打(1941年7月)以来の月間50安打を達成。[14]月間MVPに選出された。この年は初めてオールスターゲームにも選出され、シーズンでは149試合に出場。打率.324・19本塁打・84打点・30盗塁を記録し、MVPの投票で3位に入った。本塁打数はロイ・スモーリーの遊撃手としての球団記録16を更新し、203安打を放ち、遊撃手として球団史上2人目となる200本安打を達成した[14]。
1999年には打率.349(リーグ2位)、24本塁打、102打点、134得点(リーグ2位)、219安打(リーグ1位)、出塁率.438と、いずれも自己最高の成績を残した。
2000年は148試合に出場し、打率.339、15本塁打、73打点、22盗塁だった。
2001年にヤンキースと総額1億8,900万ドルの10年契約を結んだ。この年は150試合に出場し、打率.311、21本塁打、74打点、27盗塁だった。
2002年は157試合に出場し、打率.297・18本塁打・75打点・32盗塁だった。
2003年は4月1日に左肩の故障で15日間の故障者リスト入りし、5月13日に復帰。故障の影響で、5年連続選出されていたオールスターゲームには選ばれなかった。6月3日にはドン・マッティングリーが1991年 - 1995年に務めて以来空位となっていた、ヤンキース11代目のキャプテンに就任した。この年は119試合に出場し、打率.324、10本塁打、52打点、11盗塁だった。
2004年は2年ぶりにオールスターゲームに選出され、シーズンでは154試合に出場。打率.292、23本塁打、78打点、23盗塁だった。オフに自身初となるゴールドグラブ賞を受賞した[15]。
2005年は159試合に出場し、打率.309、10本塁打、70打点、14盗塁だった。オフには2年連続でゴールドグラブ賞を受賞した[16]。
2006年は打率.343(リーグ2位)、213安打(リーグ3位)、34盗塁の好成績を残し、ゲーリー・シェフィールドや松井秀喜が故障離脱するなど苦しいチームを地区優勝に導いたとしてMVP候補の最右翼に挙げられた[17]。結果はジャスティン・モルノー(ツインズ)にMVPを譲ったが、ハンク・アーロン賞とシルバースラッガー賞、3年連続となるゴールドグラブ賞を受賞した。
2007年は156試合に出場し、打率.322、12本塁打、73打点、15盗塁だった。2年連続でシルバースラッガー賞を受賞したが、3年連続で受賞していたゴールドグラブ賞は受賞を逃してしまった。
2008年は150試合に出場し、打率.300、11本塁打、69打点、11盗塁だった。オフに3年連続となるシルバースラッガー賞を受賞した。ヤンキース球団安打記録樹立時(2009年)
2009年は8月16日のマリナーズ戦で、通算2674本目のヒットを放ち、ルイス・アパリシオが持っていた遊撃手としての通算安打数メジャーリーグ記録を更新した[18]。