デレク・ジーター
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

7月11日に復帰した[26]が、同日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で大腿四頭筋を痛め[27]、7月19日に再び15日間の故障者リスト入りした[28]。7月28日に復帰[29]。復帰後は4試合に出場していたが、8月3日に右ふくらはぎを痛め、8月5日に再び15日間の故障者リスト入りした[30]。8月26日に復帰[31]。復帰後は12試合に出場していたが、9月8日に左足首を痛め、9月11日にこの年4度目となる15日間の故障者リスト入りした[32]。9月14日に60日間の故障者リストへ異動し[33]、そのままシーズンを終えた。この年は度重なる故障の影響で、17試合の出場にとどまり、打率.190、1本塁打、7打点だった。オフの11月1日にヤンキースと1200万ドルの1年契約に合意した[34]

2014年2月12日に、2014年シーズン限りで現役を引退することが発表された[35]。7月には2年ぶり14回目となるオールスターゲームにファン投票・遊撃手部門1位で選出された。9月23日、球界に多大な功績を残したとしてコミッショナー特別表彰を贈られた。同賞のトロフィーを手渡したMLBコミッショナーのバド・セリグは「ジーターの業績に敬意を示す今日のような日を心待ちにしていた。同じ時代にコミッショナーを務めることができ、幸せに思う」と話し[36]、ジーターは「多くの人がもらえるわけではない。この受賞を大切にしたい」と述べた[2]。9月25日のボルチモア・オリオールズ戦(監督はジーターのデビュー時の監督であるバック・ショーウォルター)がホーム最終戦となった。ジーターにとってはヤンキー・スタジアムでの最後の試合、5-5の同点、9回1死二塁のチャンスにエバン・ミークからサヨナラヒットを放った。試合終了後はチームメイトのほか、ジーターの家族(両親、妹、甥)、かつて共にプレーし、自身を含め"Core Four"と呼ばれたマリアノ・リベラホルヘ・ポサダアンディ・ペティット、そしてバーニー・ウィリアムスティノ・マルティネス、ヤンキース前監督のジョー・トーリがグラウンド内に集まり、ジーターを迎えた[37]。その後、フランク・シナトラの名曲『マイ・ウェイ』が流れるなかダイヤモンドを一周し、ヤンキー・スタジアムに別れを告げた[38]。9月28日にボストン・レッドソックス戦の3回表、三塁への内野安打で三塁走者のイチローを返し、タイムリーヒットを記録したところで代走と交代。観客の大きな拍手・声援を受けながら笑顔で監督のジョー・ジラルディやチームメイトと抱き合い、ベンチへと下がった[39]。現役最後の試合で3465本目の安打を放ち、20年間のキャリアに幕を閉じた[40]。試合後、「心身の全てをささげてきた。自分のやりたいことを最後までやり切ることができた。本当に幸せだ」と話した[41]ジーターの背番号「2」。
ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番に2017年指定。
引退後

2014年10月1日に「The Players' Tribune」(ザ・プレーヤーズ・トリビューン)という名のスポーツウェブサイトを開設した[42]。通常のメディアと違い、記者を介在せず、選手からファンへ直に想いや意見を届けるのがサイトの特徴で、開設直後から多くの選手が利用している。例えば、NBAスターのコービー・ブライアントは、引退表明の場とした[43]。また、ジーター自身もサイトに寄稿しており、2016年にはイチローに対する想いを綴った記事を掲載している[44]

引退後の活動について2014年に地元メディアから質問された際、監督やコーチ業は(全米各地への)遠征に多くの移動時間が要求されるため「やりたくない」と明言しており、オーナーになることについては興味があると話した[45]

2015年5月24日にバーニー・ウィリアムスの永久欠番セレモニーに出席し、現役引退後初めてヤンキー・スタジアムに姿を見せた。ティノ・マルティネス、ポール・オニール、ジョー・トーリ、アンディ・ペティット、ホルヘ・ポサダ、マリアノ・リベラと共に、盟友を祝福した[46]

2016年3月11日にタンパベイ・レイズ対キューバ代表の親善試合の特別ゲストとなったことが発表された[47]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:289 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef