デレク・アンド・ザ・ドミノス
Derek and the Dominos
左から右に: ジム・ゴードン、カール・レイドル。ボビー・ウィットロック、エリック・クラプトン
基本情報
出身地 イギリス、ロンドン
ジャンルブルース・ロック、サザンロック
活動期間1970年 - 1971年
レーベルポリドール, アトコ, RSO
デレク・アンド・ザ・ドミノス(Derek and the Dominos)は、アメリカのロックバンド。1970年にエリック・クラプトン、ボビー・ウィットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードンによって結成された。4人はデラニー&ボニー&フレンズで活動を共にしていた。初期のスタジオセッションおよび初のステージにはデイヴ・メイソンがリードギターで参加している。この他に、バンドの初のセッションにはジョージ・ハリスンが参加した。デレク・アンド・ザ・ドミノスの結成は、ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』のレコーディングがきっかけでもあった。
バンドは唯一のスタジオアルバム、トム・ダウドのプロデュースによる『いとしのレイラ』を発表した。このアルバムはデュアン・オールマンのスライドギターが大きな特徴でもある。二枚組アルバムである『いとしのレイラ』は評論家からの称賛を受けたものの、リリース当初は販売およびラジオでのオンエアも振るわなかった。アルバムは1970年に発表されたが、本作からのシングル「いとしのレイラ」は1972年3月にようやくアメリカおよびイギリスでトップ10入りした。本作はしばしばクラプトンの最高傑作であると見なされる[1]。
歴史
結成とその背景デレク・アンド・ドミノスのメンバーは、デラニーとボニー・ブラムレットが率いるソウルバンド、デラニー&ボニー・アンド・フレンズのバッキングメンバーとしてツアー中に出会った。
デレク・アンド・ザ・ドミノスはデラニー&ボニー&フレンズにおける、4人のメンバーのかかわり合いを通して生まれた[2]。デラニー&ボニーはブラインド・フェイスの1969年夏のアメリカツアーでサポートを担当した。ツアーの間、クラプトンはデラニー&ボニーの相対的な匿名性に惹かれていった。それは彼が自分のバンドで受けた、過度のファンが惜しみなく捧げた崇拝よりも魅力的だと感じた[3][4]。クラプトンは後にドミノスを結成するボビー・ウィットロック(ボーカル、キーボード)、カール・レイドル(ベース)、ジム・ゴードン(ドラム)[2]と共に、1969年11月から1970年3月まで、デラニー&ボニー&フレンズのメンバーとしてヨーロッパとアメリカでのツアーに参加した[5]。さらに、バンドは同じ頃に録音されたクラプトンのデビューソロアルバム、『エリック・クラプトン・ソロ』[6][7]をサポートした[8]。報酬をめぐる意見の不一致により、何人かのメンバーがデラニー&ボニー&フレンズを脱退した[7]。ウイットロックは後に、デラニーとボニー、その他の困難について語っている。デラニーとボニーは頻繁に喧嘩し、デラニーはジェームス・ブラウンのように要求の厳しいバンドリーダーであったとする[9][10]。