デルフト眺望
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『デルフト眺望』オランダ語: Gezicht op Delft

作者ヨハネス・フェルメール
製作年1660年 - 1661年頃
種類キャンバスに油彩
寸法96.5 cm × 115.7 cm (38.0 in × 45.6 in)
所蔵マウリッツハイス美術館ハーグ

『デルフト眺望』(デルフトちょうぼう、: Gezicht op Delft, : View of Delft)は、オランダの画家ヨハネス・フェルメールが1660年から1661年の間に描いた絵画。『デルフトの眺望』[1]などの日本語表記もある。キャンバスに油彩で描かれた作品で、デン・ハーグマウリッツハイス美術館が所蔵している[2]

フェルメール作品は室内画が中心であり、風景画は本作品と『小路(英語版)』の2点のみとなる[3]。フェルメールは自身が暮らしたデルフトを題材とするにあたり、個人的な体験と結びつけ、生涯に関わる建築物を一望するように描いた[4][5]。建物の配置や寸法、水面に映る姿などは現実と異なる調整がされている[6]

本作品は、19世紀にフェルメールが再評価されるきっかけとなり、ゴッホをはじめとする芸術家の称賛を受けた。作家のマルセル・プルーストは、自作の重要な場面で本作品を用いている[3][7]

制作時期については、所蔵館のマウリッツハイス美術館は1660年から1661年[8]、アーサー・K・ウィーロック(英語版)は1660年から1661年、アルバート・ブランケルト(英語版)は1661年、小林頼子は1659年から1660年としている[9]。フェルメールの研究サイトである「エッセンシャル・フェルメール (Essential Vermeer)」では、1660年から1663年の間としている[4]。『小路』や『二人の紳士と女(英語版)』と前後する時期にあたる[9]
時代背景2019年のデルフト。フェルメールが『デルフト眺望』を描いたとされる地点の近くで撮影。同じ教会の尖塔が見える。
デルフトの状況

オランダの都市デルフトには17世紀に多くの画家が訪れ、デルフト派(英語版)とも呼ばれている。特に1640年代から1650年代のピーテル・デ・ホーホパウルス・ポッテルカレル・ファブリティウスヤン・ステーン、フェルメールらはデルフト派に含まれる[注釈 1]。しかしデルフトで芸術が盛んになった頃には、政治的・経済的な繁栄はすぎつつあった。デルフト社会は保守的になり、少数の一族による支配、地元の産業の衰退が起きていた[注釈 2]。そのためアムステルダムが成長すると、多くの画家はアムステルダムに移ってゆき、他方でデルフト出身でもあるフェルメールはとどまって創作を続けた[4]ニシン漁の船であるバス船。本作でも描かれている。
気候

14世紀から19世紀にかけては地球規模で小氷期の時期にあり、寒波や疫病などの災害が起き、生物の生息域にも変化が起きた[注釈 3]。ノルウェー沖のニシンは、15世紀の第2四半期には北海へと南下するようになった。そのためにニシン漁による利益は、バルト海で漁をしていたハンザから、北海で漁をするオランダへと移っていった[12]。オランダは北海でとったニシンを塩漬けにして輸出し、オランダのニシン漁は「大漁業」(Groote Visscherij)とも呼ばれる国家的事業になった。漁業の利益は、造船や貿易への投資を可能とし、気候変動は災害をもたらすとともにオランダ繁栄の一因にもなった[注釈 4][14][15]
都市景観画の成立ヘンドリック・フローム『西から眺めたデルフト』(1615年)

オランダでは、図版付きの都市史や地図を出版し、地図製作の技術が発達した。裕福な市民は、自分たちの街を記録した絵画を依頼し、肖像画のように飾った。こうした状況がオランダの都市景観画の成立につながったという説がある[4][16]。都市景観画のもとになったとされる都市図は、ハルトマン・シェーデル(英語版)の『世界年代記』(1493年)、ゼバスティアン・ミュンスターの『コスモグラフィア(英語版)』(1544年)、ゲオルク・ブラウン(英語版)とフランス・ホーヘンベルク(英語版)の『世界都市図帳』(1572年-1617年)などに掲載されている。それらの都市図は俯瞰的視点で都市を描いており、『デルフト眺望』も同様の構図になっている。名所や人々の暮らしを詳しく描いたクラース・ヤンスゾーン・フィッセル(英語版)『商業都市アムステルダムの横顔』(1611年)のような都市誌もあった[17]エルベルト・ファン・デル・プル『1654年のデルフトの火薬庫爆発』[4][18]

都市景観画は、風景画がカテゴリーとして成立したのちに描かれるようになった。デルフトを描いた最初期の景観画には、ヘンドリック・フローム(英語版)の『西から眺めたデルフト』(1615年)、『北から眺めたデルフト』(1617年)がある[注釈 5]。また、ファブリツィウスの『楽器商のいるデルフトの眺望(英語版)』(1652年)やファン・ホイヘンの『北から眺めたデルフト』(1654年)もある[19]

都市景観画は重大事件の記録としても描かれた。1652年にアムステルダム市庁舎が焼失した時は、ルンデルスとベールストラーテンが火災と廃墟を描いた。1654年にデルフトの火薬庫が爆発した際には、ダニエル・フォスマール(英語版)とエフベルト・ファン・デル・プル(英語版)が描いた。これらは現在の報道写真のように重大事件と都市の名を記録する役割を果たした[20]。フェルメールの作品は、日常を描いた初期の都市景観画の1つにあたる[20]
構成ヨーアン・ブラウ(英語版)製作のデルフト地図(1649年)。『デルフト眺望』の視点は、右下の三角形の水域(コルクと呼ばれた)からと推測される。フェルメールは建築物を現実と異なる配置にした[5]

南から見たデルフトの街を描いたもので、コルクと呼ばれる三角形の水域から描かれている。この水域に面した港はスヒーダム港と呼ばれ、1614年の工事で作られた。画中で右端にある2つの塔を備えているのがロッテルダム門(オランダ語版)、中央の時計台があるのがスヒーダム門(オランダ語版)である。1834年から1836年にかけて城門と城壁が取り壊され、新教会(英語版)の尖塔は1872年に焼失し、ネオ・ゴシックの塔が建てられた。旧教会(英語版)の尖塔は傾斜しつつ現存している[注釈 6][21][4]

視点が高いため、スヒー運河の対岸にあるホーイカーデ埠頭の付近にあった建物の2階から描いたと推測されている[22][23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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