デルスウ・ウザーラ_(書籍)
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^ 同様の状況は、19世紀後半以降の明治政府による北海道アイヌ千島アイヌの統治においても見られた[9]
^ 他方で、当時の進化論にもとづいて先住民を進化途上の遅れた集団として分析した者もいた。たとえばフリードリヒ・エンゲルスは、ニヴフが家族進化の途上段階を証明すると解釈した[10]
^ ミハイルは、博物学者のグリゴーリー・グルム=グルジマイロ(英語版)の弟にあたる[13]
^ アルセーニエフの中国語は『ウスリー地方の中国人』という著書の調査にも活かされた[14]
^ ナナイ族はロシア語ではゴリドと呼ばれ、魚の皮を衣服にするため魚皮族とも呼ばれた。アルセーニエフもゴリドという呼称を使っている[18]
^ ロシア政府にとっての極東は軍事的な関心が中心だったが、日露戦争での敗北をきっかけとして経済への関心が高まった。ロシア政府は極東経済で東アジア諸国に依存する状況を変えるためにロシア人の入植を進め、沿海州ではロシア人の割合が1912年には74.5%に増加した[23]
^ 沿海州のうち、シホテアリニの東部や日本海沿岸地方は「ザ・ウスリー」とも呼ばれた[14]
^ デルスウは、アルセーニエフを初対面の時からカピタンと呼んだ[32]
^ 兵士の名前は次の通り。サギト・サビトフ、ステパン・アリニン、イヴァン・トルトイギン、イヴァン・フォーキン、ヴァシリー・ザハロフ、エドゥアルト・カリノフスキー、ヴァシリー・レゲイダ、ドミトリー・ディヤコフ、ステパン・カジミルチゥク[36]
^ その他の語族として、チュクチ・カムチャッカ語族エスキモー・アリュート語族旧アジア諸語族がいる[101]
^ 1824年にはアムール川流域で天然痘が流行し、半数近くの住民が清に貢納できなかったという記録がある[108]
^ 日本人と直接に会う描写は本書にはない。日本人の主な生業は、農地や狩猟ではなくウラジオストック市内の仕事だった[109]
^ 清は女真族に起源をもつ王朝であり、女真族は朝鮮王朝との毛皮交易で勢力を拡大した歴史を持つ。そのため清はクロテンの毛皮の価値を熟知していた[114]
^ 狩猟民におけるシカ猟と毛皮猟の違いは、農耕民における主食の穀物と換金作物の違いにあたり、異なる技術や社会関係が求められる[116]
^ 罠猟では、春のうちに罠を仕掛けておき時間をかけて景色に溶け込ませる。そして秋以降に仕掛けを作動させる[119]
^ シベリアの金鉱は19世紀末にはロシア金生産の75.1パーセントに達しており、必要な資本や機材が大規模なために国外資本も進出した[121]
^ もてなしで出た生の魚を、アルセーニエフは偏見を捨てて敬意をもって食べたと記録している[123]
^ アマグウ川の付近が養蜂の北限にあたり、蜜のとれる花が少ないため、ミツバチは冬の世話を必要としていた。ミツバチは蜜が不足すると悪い蜜も集め、病気になってしまう[124]
^ カムチャッカの調査について、アルセーニエフは『カムチャッカ紀行』という記録を書いたが、原稿の一部のみ見つかっている[126]
^ アルセーニエフも、1902年の旅ではデルスウをフェニモア・クーパーやトーマス・メイン・リード(英語版)の作品の登場人物にたとえている[130]
^ 松澤一直の調査による[131]
^ 1937年のソ連ではスターリニズムによる大粛清が行われていた[132]
^ アルセーニエフの著作の初訳はドイツ語版で、1924年にベルリンで出版されたとされる[128]
^ 書誌情報によれば翻訳書の出版は1942年だが、長谷川は1943年に原書を読んだと書いているため、そのまま記す[136][135]
^ 当初の映画化では、舞台と登場人物を北海道開拓時代に置き換えて、アルセーニエフを三船敏郎、デルスウを志村喬にした『蝦夷探検記』という企画もあったが実現しなかった[141]
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