1351年、従兄弟のフィールーズ・シャー・トゥグルクが王位を継承すると、先代から続く混乱は収まり、内政面では大きな功績をあげた。だが、ベンガル地方への遠征は失敗するなど、喪失した領土は奪還できなかった[14][13]。
1389年、フィールーズ・シャーが死亡すると、一族の間で王位をめぐる争いが発生し、1398年にはティムールの侵攻があって、デリーが略奪・破壊された[15]。また、その前後にジャウンプル・スルターン朝、マールワー・スルターン朝、グジャラート・スルターン朝が成立した。 1414年、ティムールの代官でもあったヒズル・ハーンはデリーを制圧し、デリー・スルターン朝の4番目の王朝であるサイイド朝を開いた[16]。 だが、サイイド朝はトゥグルク朝の領土をそのまま継承しただけなので、首都デリーとその周辺しか支配していなかった[13]。加えてジャウンプル・スルターン朝やマールワー・スルターン朝、メーワール王国に囲まれて、王権は不安定だった[17][18]。 ムハンマド・シャーの治世、数人の貴族らが政権を握り、マールワーにデリーを制圧するように要請することもあった。また、パンジャーブ一帯に力を持ったアフガン系ローディー族が台頭した[17]。 こうしたなか、1451年にローディー族の族長バフルール・ローディーがデリーを制圧し、デリー・スルターン朝の5番目の王朝であるローディー朝を開いた。その治世、ジャウンプル・スルターン朝と長い戦いがあり、1479年にその首都ジャウンプルを征服した。 次のシカンダル・ローディーは名君であり、ジャウンプルを完全に支配下に置き、ビハールも併合し、デリーの南に存在したラージプートのグワーリヤル王国 だが、イブラーヒーム・ローディーの時代、父の代からの貴族勢力と衝突し、またメーワール王国にも敗北し[19]、バーブルがパンジャーブに侵攻するなど[20]、王朝は混乱が続いた。そして、1526年にイブラーヒームはバーブルにパーニーパットの戦いで敗北して戦死、ここにデリー・スルターン朝は滅亡した[20]。
サイイド朝
ローディー朝
歴代君主
奴隷王朝
クトゥブッディーン・アイバク(在位:1206年 - 1210年)
アーラーム・シャー(在位:1210年 - 1211年)
シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ(在位:1210年 - 1236年)
ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー(在位:1236年)
ラズィーヤ(在位:1236年 - 1240年)
ムイズッディーン・バフラーム・シャー(在位:1240年 - 1242年)
アラー・ウッディーン・マスウード・シャー(在位:1242年 - 1246年)
ナーシルッディーン・マフムード・シャー(在位:1246年 - 1266年)
ギヤースッディーン・バルバン(在位:1266年 - 1287年)
ムイズッディーン・カイクバード(在位:1287年 - 1290年)
シャムスッディーン・カユーマルス(在位:1290年)
ハルジー朝
ジャラールッディーン・フィールーズ・シャー(在位:1290年 - 1296年)
アラー・ウッディーン・ムハンマド・シャー(在位:1296年 - 1316年)
ルクヌッディーン・イブラーヒーム(在位:1296年)
クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー(在位:1316年 - 1320年)
シハーブッディーン・ウマル(在位:1316年)
トゥグルク朝
ギヤースッディーン・トゥグルク(在位:1320年 - 1325年)
ムハンマド・ビン・トゥグルク(在位:1325年 - 1351年)
フィールーズ・シャー・トゥグルク(在位:1351年 - 1388年)
ギヤースッディーン・トゥグルク2世(在位:1388年 - 1389年)
アブー・バクル・シャー(在位:1389年 - 1390年)
ナーシルッディーン・ムハンマド・シャー(在位:1390年 - 1394年)
アラー・ウッディーン・シカンダル・シャー(在位:1394年)
ナーシルッディーン・マフムード・シャー(在位:1394年 - 1413年)
ナーシルッディーン・ヌスラト・シャー(在位:1394年 - 1398年)
ダウラト・ハーン・ローディー(在位:1413年 - 1414年)