デラウェア州
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1638年、スウェーデンの交易基地と植民地であるニュースウェーデンが、スウェーデン人フィンランド人、オランダ人集団の指導者ピーター・ミニュイットによって、フォートクリスチーナ(現在のウィルミントン)に設立された。ニュースウェーデン植民地は17年間続いた。1651年、ピーター・ストイフェサントの指導力で復活したオランダが現在のニューキャッスルに砦を建設し、1655年にはニュースウェーデンを征服して、オランダ領ニューネーデルラントに併合した[6][7]。それから僅か9年後の1664年、イングランドヨーク公ジェームズの指示で、ロバート・カーが指揮するイングランド艦隊により、オランダは征服された。メリーランド植民地領主第2代ボルチモア男爵セシリウス・カルバートがこの地域の領有権を主張していたが、ヨーク公は1682年にウィリアム・ペンにやや疑義の残る形で領有権を渡した(ペン=カルバート境界紛争参照)。ペンはその領地であるペンシルベニア植民地について、海への出口を強く求めており、後に「デラウェアの下流郡」[6]と呼ばれることになる土地をヨーク公から借用した。

1682年、ペンは代表制政府を設立し、ペンシルベニアとデラウェアを1つの議会の下にまとめた。しかし1704年には、ペンシルベニア植民地が大きく成長しており、その代表は下流郡の同意が無くても決断できることを望み、ペンシルベニアの代表はフィラデルフィアで、デラウェアの代表はニューキャッスルでそれぞれの議会を開くようになった。ペンとその相続人は2つの植民地領主に留まり、その総督には常に同じ人物を指名した。デラウェアとペンシルベニアが同じ総督を戴いていたのは特異なことではなかった。1703年から1738年、ニューヨーク植民地ニュージャージー植民地は1人の総督の下にあった[8]マサチューセッツ湾植民地ニューハンプシャー植民地も何度か1人の総督の下にあった[9]

デラウェア地域の初期は年季奉公者の労働力に頼っていたが、後にはイングランドの経済状態が良化してイングランドからの移民が減ったために、多くの奴隷を輸入した。換金作物としてタバコを栽培する奴隷社会となった。ただし、イングランドからの移民は入植を続けていた。
アメリカ独立戦争

大西洋岸中部地域にある植民地はイギリスとの対立に当初それほど熱心ではなく、デラウェアの下流郡も同様だった。市民は領主政府と良好な関係を保っており、他の植民地よりも植民地議会でより独立色の強い行動を認められていた。ウィルミントン港の商人は貿易でイギリスと強く結びついていた。

そのような時期にニューキャッスルの弁護士トマス・マッキーンが強い言葉で印紙法を非難し、ケント郡生まれのジョン・ディキンソンは「革命の文士」になった。独立宣言がでることを予測した愛国者の指導者トマス・マッキーンとシーザー・ロドニーは植民地議会を説得し、1776年6月15日にイギリスとペンシルバニア植民地の支配からの離別を宣言させた。デラウェアの多数意見を代表していたのがジョージ・リードであったが、独立宣言の採決には加われなかった。シーザー・ロドニーは夜通し馬で駆けて大陸会議に入り、独立に賛成するデラウェアの票を投ずることができた。

デラウェアは当初ジョン・ハスレットを指揮官として大陸軍に連隊を送った。その連隊は「デラウェア・ブルース」とか「ブルー・ヘン・チキンズ」と呼ばれた。1777年8月、イギリス軍の総司令官ウィリアム・ハウフィラデルフィア方面作戦の途上でデラウェアを通過し、ブランディワインの戦いで勝利してフィラデルフィアを占領した。デラウェアであった唯一の戦闘は9月3日にニューキャッスル郡クーチ橋で戦われたものである。

ブランディワインの戦い後にウィルミントンはイギリス軍に占領され、デラウェアの知事ジョン・マッキンリーは逮捕された。イギリス軍は戦争の残り期間の大半でデラウェア川を支配したままであり、商業を妨害し、特にサセックス郡にいる積極的な王党派の市民の活動を奨励した。イギリス軍は奴隷がイギリス軍と共に戦えばその解放を約束したので、逃亡した奴隷が北に集まり、イギリス軍の前線に合流した[10]

アメリカ合衆国の独立後、デラウェアの政治家は強い中央政府に反対する側の中心的立場となり、議会には各州が同数の代表を送ることを主張した。
奴隷制度と人種

デラウェアの開拓者の多くは、人口が急増していたメリーランドやバージニアから移って来ていた。これら植民地経済はおもにタバコの栽培に依存しており、労働集約型だったので奴隷の労働力に頼る比率が増していった。当初のイングランド人移住者の多くは、渡航費の肩代わりをして貰う代償として一定期間労働者として雇われる年季奉公者として入ってきていた。当初は年季奉公者とアフリカ人奴隷との線引きが曖昧だった。独立戦争前にメリーランドから移ってきたアフリカ系アメリカ人の自由民は、手ごろな土地を入手できた。彼等は主に年季奉公の女性と、奴隷あるいは年季奉公あるいは自由のアフリカ系アメリカ人男性の間にできた者の子孫だった[11]。イングランドの経済状態が良化してイングランドからの年季奉公者が減ったために、労働力として多くの奴隷が輸入された。

植民地時代が終わるとき、デラウェア州の奴隷人口は減少を始めた。農業経済はタバコから混合型へ移行し、奴隷労働力の需要は減った。独立戦争後にメソジストクエーカー教徒が奴隷所有者に奴隷解放を働きかけ、理想を求めるという理由で個人による奴隷解放が進んだ。1810年時点ではデラウェアの黒人人口の4分の3は自由人だった。1777年にジョン・ディキンソンが37人の奴隷を解放したとき、州内では最大の奴隷所有者だった。1860年時点では最大の奴隷所有者でも16人しか保有していなかった[12]

州議会で奴隷制度廃止が提案されたとしても僅差で否決されていたが、実際面ではほとんど終わっていた。南北戦争開始直前の1860年国勢調査時点で、黒人人口の91.7%は自由人だった[13]。奴隷総数は1,798人であり、「自由有色人」は19,829人だった[14]

1813年、アメリカでも最古の黒人教会がデラウェアで承認され、元奴隷のピーター・スペンサーが創立したのでスペンサー教会あるいはアフリカ人の統一教会と呼ばれた。これは1793年にフィラデルフィアで設立されたアフリカ人メソジスト・エピスコパル教会を継いでおり、1816年までメソジスト・エピスコパル教会との結びつきがあった。スペンサーはウィルミントンに新しい宗派のための教会を建てた[15]。この教会はアフリカ人統一第一有色人メソジストプロテスタント教会および関連団体と呼ばれ、一般的にはA.U.M.P.教会と呼ばれた。1814年にスペンサーが始めたビッグ・オーガスト・クォータリーは、現在でも祝われており、アメリカでも最古の文化的祭りとなっている。

南北戦争が始まったとき、デラウェア州は唯一の名目上奴隷州であり、北部に留まった。1861年1月3日にアメリカ合衆国からの脱退を問うた投票ではこれを否決した。このときデラウェア州知事が述べたように、アメリカ合衆国憲法を批准して最初の州になったデラウェア州は、合衆国を去るとすれば最後の州になると言われた。この戦争で戦った市民の大半は州の連隊(北軍)に入ったが、メリーランド州やバージニア州の連隊に入って南軍に仕えた者もいた。南軍の連隊や民兵隊が組織されなかったことでは、唯一の奴隷州となった。1865年12月にアメリカ合衆国憲法修正第13条を批准し、残っていた奴隷も解放された。
地理デラウェア州図12マイル円12マイル円、メイソン・ディクソン線、「ザ・ウェッジ」(くさび)との相関図、青と白の領域がデラウェア州領内

デラウェア州は、北部でペンシルベニア州に、東部でデラウェア川デラウェア湾を挟んでニュージャージー州に、さらにその南は大西洋に、西部と南部でメリーランド州に接している。またデラウェア川の東岸、ニュージャージー州と陸続きに小部分がある。メリーランド州の東海岸部およびバージニア州の2郡と共に、大西洋岸に伸びるデルマーバ半島を構成している。最大都市はウィルミントン市で、州都はドーバー市である。南北96マイル、東西は9-35マイルであり、陸地面積5,068km2は、ロードアイランド州に次いで2番目に小さく、千葉県とほぼ同じ大きさである。

州北側の州境は少し珍しい形で定義されている。デラウェア州とペンシルベニア州の州境は、ニューキャッスル市にある郡庁舎のキューポラから半径12マイル (19 km) の円弧となっていた。


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