デモ活動
[Wikipedia|▼Menu]
そのような参加者らが暴徒と化した場合、警察などが出動し、例えば参加者に対する放水催涙ガスゴム弾といった非致死性の武器を使って鎮圧を試みようとする。こういった状況は、デモ参加者との応酬に発展する場合もあるほか、非殺傷性武器を使ってなお、至近距離弾で死傷者も出すなど熾烈さも増し、非暴力のデモ行進から暴動に発展する事態を、デモ計画者側が警戒する場合もある。

なお警察側にしても、鎮圧のために死傷者が発生するのは本意ではなく、高圧放水銃や非殺傷性の音響兵器のような装備の利用を行うケースも見られる。

またデモ側が非暴力であったとしても、国策の遂行に反対するデモなどは、国家によっては無条件に武力で鎮圧される場合があり、その際その国の治安維持部隊は、強権的な手段に訴えることもある。過去の例としては完全非暴力を掲げながら銃火にさらされたインド塩の行進や、デモに参加した労働者らに向け無差別発砲の起こったロシア血の日曜日事件、アパルトヘイト政策であるパス法に反対する群衆に発砲を行ったシャープビル虐殺事件

またデモ側が暴力である場合、政府はより強い力で市民の安全を守っていける。胡耀邦の死亡に懸念を持って解釈を求め天安門広場を座り込みで占拠した学生らの一部が学生代表達の非暴力主張を無視し警備担当をしてた軍隊のタンクを奪い、さらに出所不明でタンクの運転さえできる「学生」と併せて武力行使を控えてる軍人を銃やタンクで殺害しさらに事件が拡大化、事態を鎮めるために軍の武力弾圧で終わる中国天安門事件、最近では香港において逃亡犯条例の議会通過を阻止するべく香港の立法会周辺や占拠した一部の街区と大学に集まった自作の銃とガソリン爆弾を持つ学生やデモ反対の一般市民の老人に油と火を付ける暴徒団体などに対し警察が発砲した事件などがある。
日本でのデモ

21世紀の日本のデモは諸外国に比べると小規模なものとなっている(そもそも参加人数自体が欧米アラブなど諸国に比べ[3] 非常に少ないので混乱もそれに応じて少ない)。

日本の場合警備が厳しく、デモ隊より警備の機動隊の人数の方が多くなることもしばしばあり、さらに機動隊がデモ隊をぐるりと包囲する形で監視していることもしばしばみられる。これにより、日本でのデモ活動では事前計画を超えることが難しく、デモが自然発生的に大規模化する現象が起りにくい。

日本で「デモ活動」(公安条例には「集団示威運動」とあり、「デモ行進」に限定されていないため、「デモ活動」と表現)を行うにあたり、道路上でデモ活動を行う場合は道路交通法77条に基づき所轄警察署長の許可を受ける必要があるほか、デモ活動を行う都県または市が公安条例(正しくは「集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例」・「多衆運動に関する条例」)を定めている場合はそれに従う必要がある。国会議事堂外国大使館・領事館政党事務所などの周辺部では国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律が適用される地域として指定されている場所があり、その場所では拡声器を用いたデモ活動が制限されている。また破壊活動防止法では破壊的団体に対して6ヶ月間以内の期限と地域を定めてデモ活動を禁止させることができる規定が存在する。
戦前大正時代の労働者デモ

日本にデモンストレーションという言葉が紹介されたのは20世紀の初めだとされ、示威行為と訳された(現在も「集団示威運動」[4]、「示威運動」[5][6][7]、「示威行進」[8][9] の語が法令に存在する)。

有名なデモや暴動としては、自由民権運動米騒動がある。
終戦?1970年代

終戦後、メーデーが復活し、終戦翌年の1946年(昭和26年)、食糧難・物資不足から1千万人餓死説も囁かれる中、同年5月12日に世田谷区で「米よこせ」区民大会が開催。参加者が皇居までデモ行進を行った。同年5月19日には飯米獲得人民大会が開催。プラカード事件が発生している。1950年(昭和25年)5月30日には皇居前広場人民広場事件が発生。これを受けて同年6月3日には連合国軍最高司令官総司令部、政府、警視庁の方針で都内の集会やデモが禁止された(同年6月25日、公共の脅威となるものを除き解除)[10]。しかし、1952年(昭和27年)5月1日、暴徒化したデモ隊が皇居に入る血のメーデー事件も起こった[11]。各地で中国共産党式の非合法活動を行って世論の反発を受けた当時の日本共産党1952年の総選挙で一転議席が0になった。党員の一部が暴力を肯定したが、党は1955年その暴力を誤りだったと否定、そして議会による革命路線(民主主義革命)を明確にした。それに反発して以前の暴力による革命路線を貫いた日本の新左翼、暴力革命に向かう人々は日本共産党から離党したが、その後も非合法な暴力事件を繰り返し、日本の左翼衰退の原因となる[12]。日本共産党は、平和を貫く党としての立場、民主主義革命(当然、非暴力)路線を明確に示すため、2003年6月に1971年の改定でも維持した綱領で「君主制の廃止」を「これの存廃は国民の総意によって解決される」に、「自衛隊解散を要求する」を「国民の合意で憲法第9条の完全実施に向かう」と改定している[13]

安保闘争日本社会党やそれを支持する組織は非武装中立を主張して、日本共産党や支持組織は「非合法の軍隊」とする自衛隊と日米安保に基づく米軍を不要としてアメリカが主導する陣営に対抗する「自主的自警組織」を主張して参加、支援した。選挙直前に参加者数は最高潮に達したが、安保条約に反対して闘争支持していた日本社会党と日本共産党は1960年の総選挙で敗北した。安保闘争にも関わらず両党の合計得票は自民党の半分未満で投票率も前回の選挙よりも下がった。次第に第一野党の候補者擁立する選挙区自体が減って、候補者全員が当選しても過半数にならないなど政権獲得や有権者による選挙よりも市民運動やデモを重視する路線になる。2度目の安保闘争直前の1969年の選挙でも有権者全体の支持を獲得出来ず敗北した[14]

ビートルズ来日時に右翼が「青少年を不良化するビートルズを日本から叩き出せ!」というデモを行い警官達と衝突した。その記録映像は「コンプリート・ビートルズ」や「ザ・ビートルズ・アンソロジー」などに使われている。
1970年代?1990年代

1970年代には韓国南ベトナムの軍事政権を打倒して北朝鮮北ベトナムを支援する動きや市民活動が強くなる。ベトナムに平和を!市民連合に代表される市民運動なども起こった。しかし、安保闘争の規模と参加者を越えるものは無くなった。

背景には成田闘争における過激な抗議活動や、日本の新左翼による相次ぐテロ活動によって、安保闘争参加者や好意的に思っていた人々でさえも学生運動や市民運動への考えが変わったことにある。1972年のあさま山荘事件は日本を震撼させ学生運動とデモが急激に衰退させた。日本社会党も途中までは新左翼を評価する発言をしたが、新左翼への世論の嫌悪が強まると離れた。もともと社会党は、成田闘争で党勢拡大のために反対を党の方針と決定、多くの議員が土地を買うなど参加して抗議活動を焚き付けたが、地元の多くが補償で移転を受け入れ、新左翼手動の過激な闘争で反対運動が世論を支持を失うと土地を手放し、最終的に成田空港を利用するようになった。

1972年以後に学生になった世代はしらけ世代と呼ばれ、デモや学生運動を忌避するようになる。安保世代で学生運動家の多数を占めていた大学生も多くが入社後にサラリーマンになって、学生運動やデモから離脱した。安保世代は高卒が圧倒的多数を占めていたため、学生運動を行う「大学生」という存在の多くがこのようにノンポリや別の政党支持者になったことは痛手となった。ノンポリはしらけ世代以降も数多く生まれて、専従活動家など以外がデモに参加しなくなった。組合内部からの闘争路線への支持も激減して、労働運動も下火になる[15]。1990年代以降はソ連崩壊による冷戦の終結、それに伴うイデオロギー対決の自由主義陣営の勝利、若者の政治離れ、日本の新左翼の展開した政治的主張の方法への慢性的な反感によって日本におけるデモは更に衰退傾向になった[16]

活発な活動を続けていた国労動労も1973年には乗客の怒りを買って上尾事件首都圏国電暴動が発生し、大衆的支持をなくしていった。

社会評論家の三浦展は、特に安保闘争以降に選挙よりもデモや市民運動に過度に重視して非武装中立や自衛隊解体を掲げていたのは、支持層の固定と政権獲得放棄して3分の1獲得のみを目指す路線に繋がったと主張している。1970年代初頭まで活動支援や擁護して新左翼を「役に立つ」仲間や支持層と放置したことを批判し、新左翼が広く知られた以降から国内のデモや抗議活動への忌避が国内の主流になったとする[16]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:64 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef