デビッド・ロイド・ジョージ
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1902年にはバルフォア教育法への反対運動を主導した。

1905年12月にヘンリー・キャンベル=バナマンを首相とする自由党政権が成立すると通商大臣として入閣した。1908年4月に首相がハーバート・ヘンリー・アスキスに代わると大蔵大臣に転任する。1908年7月には老齢年金法(英語版)制定を主導し、70歳以上の高齢者に年金を支給する無拠出老齢年金制度を創出した。その財源確保のため、自由帝国主義派閣僚が訴えていた海軍増強に反対した。社会保障費やドイツ帝国との建艦競争によって増大した財政支出を補うため、1909年4月には所得税累進課税性強化、相続税増額、土地課税など富裕層から税金を取り立てる「人民予算(英語版)」を議会に提出する。保守派や地主貴族から強い反発を招き、11月に貴族院で否決されたが、解散総選挙(英語版)や議会法の法案提出を挟んで、1910年4月に成立させることに成功した。1911年には国民保険法(英語版)の制定を主導し、これによりイギリスに健康保健制度と失業保険制度が創出された。1912年にはマルコニ社(英語版)が帝国無線通信網(英語版)の建設を受注した件でインサイダー取引を行ったという疑惑を受けて政治生命を失いかけたが、なんとか乗り切った(マルコニ事件(英語版))。

第一次世界大戦が勃発した直後には参戦に反対していたが、まもなく参戦派に転じた。反戦派最大の大物閣僚である彼の転向によってアスキス内閣は参戦を決定した。1915年5月に自由党・保守党の大連立によるアスキス挙国一致内閣が成立すると新設された軍需大臣(英語版)に就任し、軍需産業への政府介入の強化に務めた。

さらに1916年6月に敵対していた陸軍大臣キッチナー伯爵元帥が死亡すると代わって陸軍大臣に就任する。好転しない戦局や軍部が議会政治家の言うことを聞かない状況に焦燥し、優柔不断なアスキス首相を戦争指導から遠ざけて強力な戦争指導ができる政府を樹立する必要性を痛感するようになった。1916年12月、保守党党首アンドルー・ボナー・ローの支持を得て、自分を委員長とした少数閣僚による軍事委員会を作ることをアスキス首相に要求した。アスキスが応じないのを見ると辞職を表明した。保守党閣僚たちも辞職を表明したため、アスキス内閣は総辞職に追い込まれた。

組閣の大命を受け、自由党ロイド・ジョージ派と保守党に支えられたロイド・ジョージ内閣(英語版)を組閣し、大戦後半戦を主導した。総力戦体制を強化すべく、食糧省(英語版)を新設して食料配給制に移行した。船舶省(英語版)を新設して商船の政府統制を強化し、商船を船団にして海軍に護衛させ、ドイツ海軍の無制限潜水艦作戦に対抗した。西部戦線の膠着状態を破るための塹壕突破兵器として戦車の開発も急がせた。また女性の銃後の活躍を認めて、戦時中の1918年2月に普通選挙と30歳以上の婦人に選挙権を付与する選挙法改正を行った。

ロシア革命によりロシアの政権を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボルシェヴィキ政権が1918年2月に独断でドイツと講和して戦争から離脱すると、アメリカ日本などとともに反ソ干渉戦争を開始した。戦後には干渉戦争への関心を無くすも、反共主義者の陸軍大臣ウィンストン・チャーチルや保守党からの強い要望で1919年秋までは続行した。1920年のソビエトのポーランド侵攻でもポーランドを支援したが、ポーランド侵攻が失敗に終わった後の1921年には世界に先駆けてソビエトと通商条約を締結した。

1918年11月にドイツ政府が連合国との休戦協定に応じたことで第一次世界大戦は終結した。戦勝気分の冷めぬうちにと12月にも解散総選挙を行った。政権派の候補にはロイド・ジョージと保守党党首ボナー・ロー連名の推薦状(クーポン)が手交されたため、クーポン選挙と呼ばれた。選挙の結果は政権側(とりわけ保守党)の大勝に終わった。

1919年1月からパリで行われた講和会議に出席し、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンやフランス首相ジョルジュ・クレマンソーらとともに会議を主導してドイツに付きつける講和条件を決定した。6月にドイツ政府にこれを飲ませてヴェルサイユ条約を締結したことで戦間期ヴェルサイユ体制が構築された。オスマン帝国に対してはセーブル条約を結ばせて同国の支配していたアラブ地域を英仏で分割した。イギリスはパレスチナイラクを獲得した。これにより大英帝国は中東をかつてないほど強力に支配することになった。

アイルランド独立を目指すシン・フェイン党に対しては白色テロをもって厳しく弾圧したが、融和的態度も示し、1921年10月にはシン・フェイン党幹部と交渉してアイルランドに大英帝国自治領アイルランド自由国としての独立を許した。欧州訪問中の皇太子裕仁親王とロイド・ジョージ首相(前列左から2人目)

1921年10月のワシントン会議には外相アーサー・バルフォアを派遣したが、アメリカの圧力に屈する形で日英同盟を事実上破棄した。

1922年8月から9月のチャナク危機にはトルコとの開戦も辞さない強硬姿勢を貫いて外交勝利を得たものの、再度の戦争を嫌がる国内世論から批判を集めた。この事件はロイド・ジョージの「ワンマン政治」にかねてから不満を抱いていた保守党議員から離反されるきっかけとなり、10月19日には保守党社交界カールトン・クラブ(英語版)における保守党議員の投票で大連立解消の決議がなされた。ロイド・ジョージはこれ以上の政権運営不可能と判断してただちに総辞職した。

退任後、自由党が労働党の後塵を拝する第三党に没落していくことに危機感を抱き、自由党アスキス派との関係改善に乗り出した。1923年12月の解散総選挙では両派合同して選挙戦に臨んだものの第三党の状態から抜け出すことはできなかった。1926年末にアスキスが政界引退すると代わって自由党党首となったが、旧アスキス派のロイド・ジョージ不信は根強く、これを機に多くの自由党員が自由党を離党したため、自由党が再び大政党となるのは難しい情勢となった。

ジョン・メイナード・ケインズをブレーンとするロイド・ジョージは1920年代末からイエローブックやオレンジブックを発行して公共事業による有効需要増加と雇用創出を訴えるようになった。第二次世界大戦後に先進資本主義国で主流となるケインズ主義の先駆けであったが、この段階では保守党からも労働党からも相手にされることはなかった。

保守党に操られたラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣に協力したがる自由党議員が多いことに失望して、1931年に自由党党首職を辞した。以降は政界の一匹狼となったが、引き続き公共事業拡大を訴え続けた。1933年1月にドイツで公共事業拡大による失業対策を訴えるナチ党が政権を掌握したことも好意的に見ており、以降親ナチス派として行動した。もっともドイツが対外進出路線を強めるとネヴィル・チェンバレンの融和政策を批判するようになった。第二次世界大戦中の1940年5月に彼が庶民院で行った演説がチェンバレン失脚・チャーチルの首相就任の一因となった。

1944年末にドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵に叙されるも1945年3月26日には死去した。[先頭へ戻る]
生涯
生い立ちロイド・ジョージが育ったウェールズ・スラナスティムドゥイ(英語版)にあるロイド・ジョージ博物館(英語版)

1863年1月17日イングランドマンチェスターに生まれる。父は教師ウィリアム・ジョージ。母はその妻でウェールズ・スラナスティムドゥイ(英語版)出身のエリザベス(旧姓ロイド)。姉にメアリーがおり、後に弟ウィリアムが生まれる[8]

父ウィリアムは1864年に教職を退き、ウェールズ・ハヴァーフォードウェスト(英語版)に小規模な農場を購入して一家でそこへ移住したが、同年のうちに肺炎で死去している[8]。路頭に迷った母エリザベスは三人の子らを連れて、スラナスティムドゥイで靴屋を営む兄リチャード・ロイドのもとに身を寄せた[9]


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