デビッド・ベッカム
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並行して学校での試合にも参加し、ベッカムは地区の代表に選出されている[21]。また1985年と1986年にボビー・チャールトンが主宰する全国規模のサッカースクールに参加しており、1986年には実施された技術テストでロンドン地区で優勝し、マンチェスター・ユナイテッドFCの旧練習場とオールド・トラッフォードで行われた決勝戦では過去6年間での最高得点を挙げ優勝した[14][22]。ちなみに入賞の賞品は、バルセロナでの2週間の合同練習であった[22]

ロンドン北部のいくつかのクラブから誘いを受け[23]、近所のトッテナム・ホットスパーの養成スクールにも毎週月曜日に通っていたが[24]、1988年5月2日にマンチェスター・ユナイテッドFCの学生準会員となり[25]、1989年8月に晴れて学生会員となった[26]。1991年7月8日に契約金29.50ポンド+週給10ポンドの手当で練習生の契約を結んだ[27][注釈 1]
クラブ経歴
練習生・レンタル時代

1992年5月、練習生1年目の17歳以下の選手が中心に構成されたチームはFAユースカップを優勝。当初はフィジカルに難があったベッカムは外れていたが、最終的に右サイドハーフを担当していたキース・ギレスピー(英語版)が前線へ移動したことで出場機会に恵まれ、決勝のクリスタル・パレス戦の2ndレグでは1得点を挙げチームの優勝に貢献した。翌年の同大会も決勝まで駒を進めたが、リーズ・ユナイテッドAFCに敗れて準優勝。同時期の選手達は揃ってリザーブチームに昇格し、Aリーグとセントラル・リーグで優勝するという20年ぶりの快挙を成し遂げた。この頃、エリック・カントナが練習相手としてクロスを蹴らせていたところ、ファーガソン監督がその光景を見て、そのクロスの精度の高さにトップで起用することを決めた[29]

1992-93シーズン、9月23日に行われたリーグカップブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC戦に後半から途中出場し、トップデビューを果たす。1993年1月23日にプロ契約を結び、翌シーズンも序盤にレギュラー選手の休養に乗じてリーグカップに数回出場。1994年12月7日のUEFAチャンピオンズリーグ、第6節のガラタサライ戦に先発出場すると、トップチームでの自身初の得点を挙げた。

1994-95シーズン、経験を積むために1か月間のレンタル移籍で、当時リーグ2所属のプレストン・ノースエンドに加入。当時の監督ギャリー・ピーターズ(英語版)の指示でフリーキックコーナーキックを任せられ[30]、5試合に出場し(1試合は途中出場、チームは3勝2分)、フリーキックとオリンピックゴールで2得点を挙げた[31]。故障者が続出していたユナイテッドに復帰すると、1995年4月2日のリーズ戦にスターティングメンバーとして出場し、プレミアリーグデビューを果たした[31]
マンチェスター・ユナイテッド

ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンは、クラブの若手選手に大きな期待を寄せており、ベッカムはニッキー・バットガリーフィルのネヴィル兄弟らとともに、1990年代にファーガソンが連れてきた「ファーガソンのひな鳥」と呼ばれる選手たちの一人であった。1994-95シーズンを最後に、ポール・インスマーク・ヒューズアンドレイ・カンチェルスキスといった経験豊富な選手がクラブを去ったが、ファーガソンは、スター選手たちが移籍した代わりに、他のクラブの有名な選手(ユナイテッドは夏にダレン・アンダートンマルク・オーフェルマルスロベルト・バッジョの獲得を試みたが契約には至らなかった)を獲得するのではなく、クラブの下部組織出身の選手を代わりに起用することを決めると、多くの批判を招いた。ベッカムはゴールを決めたが、開幕戦でアストン・ヴィラFCに1-3で敗れ、アラン・ハンセンの「子供ばかりでは勝てない」という言葉に象徴されるように多くの者がリーグでのユナイテッドの苦戦を予想したものの、その後6連勝をし、若手選手たちは好パフォーマンスを披露した。

ベッカムはすぐに右サイドハーフのポジションを掴み、FAカップ準決勝のチェルシーFC戦でゴールを決め、決勝戦ではエリック・カントナのゴールをアシストするなどの活躍をし、クラブのリーグとFAカップのタイトル獲得に貢献した。ベッカムが初めて獲得したタイトルは、新年まで10ポイントの差を付けられていたニューカッスル・ユナイテッドFCを逆転して得たものであった。

マンチェスター・ユナイテッドでレギュラーとしてプレイし、活躍もしていたがEURO96以前に代表に招集されることはなかった[32]

1996-97シーズン開幕前に背番号10番を与えられた。1996年8月17日のプレミアリーグ開幕戦のウィンブルドンFC戦でハーフウェイライン手前から、ゴールキーパーの頭上を越えるロングシュートを決め、ベッカムの名前はイングランド中に知れ渡った。ベッカムはプレミアリーグ連覇を達成したチームの不動のレギュラーであり、シーズン終了後にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した[33]

1997年5月18日にエリック・カントナが現役引退を発表し、テディ・シェリンガムがクラブに加入したことに伴い、ベッカムは10番をシェリンガムに譲り、カントナが付けていた7番を背負うことになった。ファンの中には、カントナ引退後には7番を永久欠番にすることを望む人もいた。

1997-98シーズンも好スタートを切ったが、シーズン後半に失速しアーセナルFCに次いで、2位でシーズンを終えた[34]

1998-99シーズン、クラブはプレミアリーグとFAカップ、チャンピオンズリーグのトレブルを達成し、ベッカムもその一員であった。ワールドカップ終了後で特に多くの批判を浴びていた時期であり、様々な憶測が飛び交ったが、ベッカムはマンチェスター・ユナイテッドに残留するという決断を下したのであった。

リーグのタイトルを獲得するためには最終戦でホームのトッテナム・ホットスパーFC(ライバルクラブであるアーセナルの連覇を阻止するために、容易に負けるのではないかと言われていた)戦で勝利する必要があったが、開始早々にトッテナムがリードを奪った。その後ベッカムが同点ゴールを決め、チームは逆転で勝利し、リーグ優勝を果たした。1999年のFAカップ決勝でコーナーキックを蹴る前のベッカム

FAカップ決勝のニューカッスル・ユナイテッドFC戦とチャンピオンズリーグ決勝バイエルン・ミュンヘン戦は、本来の選手が出場停止であったため、センターハーフのポジションで出場した。チャンピオンズリーグは試合終了間際まで0-1でリードされていたが、ロスタイムに2ゴールを挙げ、トロフィーを勝ち取った。2ゴールともベッカムのコーナーキックをきっかけに生まれたものであった。これらのアシストやシーズンを通して見せた活躍が評価され、バロンドールFIFA最優秀選手賞では、いずれもリバウドに次いで2位に選出された。


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