ロンドン北部のいくつかのクラブから誘いを受け[23]、近所のトッテナム・ホットスパーの養成スクールにも毎週月曜日に通っていたが[24]、1988年5月2日にマンチェスター・ユナイテッドFCの学生準会員となり[25]、1989年8月に晴れて学生会員となった[26]。1991年7月8日に契約金29.50ポンド+週給10ポンドの手当で練習生の契約を結んだ[27][注釈 1]。 1992年5月、練習生1年目の17歳以下の選手が中心に構成されたチームはFAユースカップを優勝。当初はフィジカルに難があったベッカムは外れていたが、最終的に右サイドハーフを担当していたキース・ギレスピー
クラブ経歴
練習生・レンタル時代
1992-93シーズン、9月23日に行われたリーグカップのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC戦に後半から途中出場し、トップデビューを果たす。1993年1月23日にプロ契約を結び、翌シーズンも序盤にレギュラー選手の休養に乗じてリーグカップに数回出場。1994年12月7日のUEFAチャンピオンズリーグ、第6節のガラタサライ戦に先発出場すると、トップチームでの自身初の得点を挙げた。
1994-95シーズン、経験を積むために1か月間のレンタル移籍で、当時リーグ2所属のプレストン・ノースエンドに加入。当時の監督ギャリー・ピーターズ(英語版)の指示でフリーキックとコーナーキックを任せられ[30]、5試合に出場し(1試合は途中出場、チームは3勝2分)、フリーキックとオリンピックゴールで2得点を挙げた[31]。故障者が続出していたユナイテッドに復帰すると、1995年4月2日のリーズ戦にスターティングメンバーとして出場し、プレミアリーグデビューを果たした[31]。 ユナイテッドの監督であるアレックス・ファーガソンは、クラブの若手選手に大きな期待を寄せており、ベッカムはニッキー・バット、ガリーとフィルのネヴィル兄弟らとともに、1990年代にファーガソンが連れてきた「ファーガソンのひな鳥
マンチェスター・ユナイテッド
ベッカムはすぐに右サイドハーフのポジションを掴み、FAカップ準決勝のチェルシーFC戦でゴールを決め、決勝戦ではエリック・カントナのゴールをアシストするなどの活躍をし、クラブのリーグとFAカップのタイトル獲得に貢献した。ベッカムが初めて獲得したタイトルは、新年まで10ポイントの差を付けられていたニューカッスル・ユナイテッドFCを逆転して得たものであった。
マンチェスター・ユナイテッドでレギュラーとしてプレイし、活躍もしていたがEURO96以前に代表に招集されることはなかった[32]。
1996-97シーズン開幕前に背番号10番を与えられた。1996年8月17日のプレミアリーグ開幕戦のウィンブルドンFC戦でハーフウェイライン手前から、ゴールキーパーの頭上を越えるロングシュートを決め、ベッカムの名前はイングランド中に知れ渡った。ベッカムはプレミアリーグ連覇を達成したチームの不動のレギュラーであり、シーズン終了後にはPFA年間最優秀若手選手賞を受賞した[33]。
1997年5月18日にエリック・カントナが現役引退を発表し、テディ・シェリンガムがクラブに加入したことに伴い、ベッカムは10番をシェリンガムに譲り、カントナが付けていた7番を背負うことになった。ファンの中には、カントナ引退後には7番を永久欠番にすることを望む人もいた。
1997-98シーズンも好スタートを切ったが、シーズン後半に失速しアーセナルFCに次いで、2位でシーズンを終えた[34]。
1998-99シーズン、クラブはプレミアリーグとFAカップ、チャンピオンズリーグのトレブルを達成し、ベッカムもその一員であった。ワールドカップ終了後で特に多くの批判を浴びていた時期であり、様々な憶測が飛び交ったが、ベッカムはマンチェスター・ユナイテッドに残留するという決断を下したのであった。
リーグのタイトルを獲得するためには最終戦でホームのトッテナム・ホットスパーFC(ライバルクラブであるアーセナルの連覇を阻止するために、容易に負けるのではないかと言われていた)戦で勝利する必要があったが、開始早々にトッテナムがリードを奪った。その後ベッカムが同点ゴールを決め、チームは逆転で勝利し、リーグ優勝を果たした。1999年のFAカップ決勝でコーナーキックを蹴る前のベッカム
FAカップ決勝のニューカッスル・ユナイテッドFC戦とチャンピオンズリーグ決勝のバイエルン・ミュンヘン戦は、本来の選手が出場停止であったため、センターハーフのポジションで出場した。