デニソン大学
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1853年マスキンガム郡の農夫ウィリアム・S・デニソンは、グランビル・カレッジに10,000ドル(当時)を寄付した。大学側はこれを讃えて、校名を現在のデニソン大学に改名した[11]


1924年に建立したスウェイシー礼拝堂とその内部

南北戦争前夜には、デニソン大学の学生・教職員の多くが奴隷制度廃止運動に深く関わっていた。ギリシア・ラテン研究部門長を務めていたアサ・ドゥルーリー教授は、地元の奴隷制度廃止運動グループのリーダーでもあった。現在では学生寮の1つとなっているバンクロフト・ホールは、当時は逃亡奴隷をかくまった、地下鉄道の「駅」であった[12]

デニソン大学が男女共学化したのは20世紀に入ってからのことであるが、女子教育の前身は1832年にチャールズ・ソーヤーが創立したグランビル女子神学校にさかのぼる[13][14]。この神学校はやがて、1859年にネイサン・S・バートンとその妻が創立した青年女子学校に取って代わられた[15]。この青年女子学校は、1868年にダニエル・シェパードソン博士・牧師に売却され、1886年にシェパードソン女子大学に改称された[16]。シェパードソン女子大学は1900年にデニソン大学の一部となり、1927年に統合された[17][18]

1887年、デニソン大学は学問を更に追究したい卒業生のために、大学院修士課程を設置した[19]。その数年後には、博士課程が設置された[20]。しかし、1926年、理事会はカリキュラムを刷新し、大学院を廃止して学部教育に専念することを決定した[21]

第二次世界大戦中、海軍および海兵隊における士官の需要急増に応えるべく、(海軍兵学校ではない)通常の大学で士官を養成することを目的としたV-12というプログラムが設けられ、デニソン大学を含む全米131大学が参加した[22]1960年代には、デニソン大学は教会から独立した[23]
キャンパス2018年に改装を終えたアカデミック・クアッドラングル

デニソン大学はオハイオ州の州都コロンバスから東へ約40km、グランビル村中心部のすぐ北に931エーカー(376.8ha[1]のキャンパスを構えている。このキャンパスは、1916年フレデリック・ロー・オルムステッド・ジュニアらのオルムステッド・ブラザース事務所が設計した[2]

教育・研究用途の校舎はキャンパス南西部のアカデミック・クアッドラングルと呼ばれるエリアに集中している。同学のメインの図書館であるウィリアム・ハワード・ドーン図書館や、ドーン管理棟もアカデミック・クアッドラングルに建つ。自然科学系の教室や実験室、研究室等が入っている校舎は、その北西に隣接する、サイエンス・クアッドラングルにかたまって建っている。一方、アカデミック・クアッドラングルの東に広がるエリアはチャペル・ウォークと呼ばれ、大学のシンボルでもあるスウェイシー礼拝堂や、スウェイシー天文台等が建つ。学生寮はサイエンス・クアッドラングルのすぐ西、キャンパス西端のウェスト・レジデンシャル・クアッドラングル、その北に広がるノース・レジデンシャル・クアッドラングル、およびチャペル・ウォークの東、キャンパス東端のイースト・レジデンシャル・クアッドラングルの3エリアに建ち並んでいる。アカデミック・クワッドラングルやチャペル・ウォーク、およびレジデンシャル・クワッドラングル3エリアに囲まれたキャンパス中央部には、フットボールチームの本拠地であるディーズ・フィールド=パイパー・スタジアムや、ミッチェル・アスレチック・センター、テニスコートなどの体育施設が設けられている[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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