デトロイト
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デトロイトの都市圏(大都市統計地域:MSA)の人口は約373万人(全米12位)、フリントなどを含めた広域都市圏(合同統計地域:CSA)の人口は約439万人(全米14位)となっている。
歴史と現在
成り立ち詳細は「w:History of Detroit」を参照

1701年7月24日にフランスの探検家アントワーヌ・ド・ラ・モト・カディヤックがフォート・デトロイトを築いたのが始まりとされる。名称はフランス語で「水道」を意味する「ル・デトロワ(Le Detroit)」に由来し、セントクレア湖とエリー湖デトロイト川が結んでいる同地の地形から名付けられた。
モーターシティ

1805年の大火の後に計画都市としてオーガスタス・ウッドワード(英語版)裁判官によって都市が設計され、その後ピーター・シャルル・ランファンへと引き継がれる。元々馬車自転車製造が盛んだったが、1899年自動車工業が興る。

そして1903年ヘンリー・フォード量産型の自動車工場を建設し、「T型フォード」のヒットとともにアメリカで一番の自動車工業都市として発展した。後にゼネラルモーターズとクライスラーが創業し、フォード・モーターと共にビッグスリーと呼ばれた。パッカードなどそれ以外の自動車メーカーもあって市はモーターシティ(モータウン)と呼ばれるようになり、全盛期には180万の人口を数えたが、その半数が自動車産業に関わっていた。
没落デトロイト暴動(1967年7月23日)

デトロイトの繁栄を支えた要素の1つとして南部から移住してきた多くのアフリカ系アメリカ人労働者の存在があった。彼らの多くは低賃金の仕事のみを許され、ゾーニングによってスラムと認定された地域に押し込められていた。しかし、1948年に行われたシェリー対クレーマー事件の最高裁判所の判決によって白人の居住地域から黒人を締め出すことが憲法違反とされたことから、反発を受けながらもデトロイトの黒人居住区は拡大を始め、対してホワイト・フライトと呼ばれる白人の郊外への脱出現象が出現する[2]。同時期に自動車産業も郊外へと移転が行われるようになり、デトロイトは1948年から20年の間に13万人の雇用を失った[2]

1967年7月にアフリカ系アメリカ人による大規模なデトロイト暴動が市内で発生して多数の死傷者を出し、ホワイト・フライトは加速した[2]1970年代頃から安価・安全・コストパフォーマンスに優れた日本車の台頭により自動車産業が深刻な打撃を受けると、企業は社員を大量解雇し、下請けなどの関連企業は倒産が相次いで市街地の人口流出が深刻となった。同時にダウンタウンには浮浪者が溢れ、治安悪化が進んだ(インナーシティ問題と呼ばれる)。

この様な状況を見て、1970年代にはダウンタウン周辺に高層ビル・コンプレックス「ルネサンス・センター」(GM本社がテナントに入った)を建設したが好転せず、日本バブルを謳歌していた頃、特に市況はどん底に陥っていた。その頃には、中国人の移民の若者ビンセント・チンが、反日感情を高ぶらせた白人失業者に日本人と間違えられて殺害されるという事件も発生した(デトロイト大都市圏における日本人の歴史ジャパンバッシングも参照)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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