デトロイト・タイガース
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2007年オフにはアトランタ・ブレーブスからエドガー・レンテリアシカゴ・カブスからジャック・ジョーンズフロリダ・マーリンズからミゲル・カブレラドントレル・ウィリスを獲得するなど次々と大型補強を行い、かつてないほど戦力が充実している。

現在の本拠地は、2000年に開場したコメリカ・パーク。入場ゲート前の巨大な虎の像をはじめ、球場の至る所にチームの象徴である虎にちなんだモニュメントが存在する。またNFLデトロイト・ライオンズの本拠地であるフォード・フィールドが隣接している。前本拠地のタイガー・スタジアムは100年近く使用していた歴史ある球場で、移転の際には賛否両論が起こった。

球団のマスコットは1995年にデビューしたパウズで、ベンガルトラがモチーフとされている。
球団の歴史
球団創設以前

デトロイトには1881年から1888年にかけてナショナルリーグデトロイト・ウルバリンズという球団が存在した。ウルバリンズは1887年にリーグ優勝を遂げ、この年にはアメリカン・アソシエーションのセントルイス・ブラウンズ(現:セントルイス・カージナルス)との間で『ワールドシリーズ』を行っている(結果は10勝5敗でウルバリンズの勝利)。しかし優勝のための補強が大きな負担となり、翌年リーグ5位と低迷すると1888年限りでリーグを脱退。その後、マイナーリーグであるインターナショナルリーグに籍を移し、1889年1890年の2年間にわたって活動したが、リーグの消滅と共にチームも解散した。このチームとその後のタイガースとの関係は無い。
球団創設

1894年にデトロイトに新たなチームが創設され、アメリカンリーグの前身となるウェスタンリーグに加盟した。

1896年にはベネット・パークが開場(その後ネビン・フィールド、ブリッグス・スタジアム、タイガー・スタジアムに改称)。2000年コメリカ・パークが開場するまでの104年間に渡って、この地を本拠地球場とした。なお、球団が創設された頃は愛称が定まっていなかったが、このベネット・パークが開場した頃にはタイガースという名前が定着したといわれる。

1900年にウェスタン・リーグは、アメリカンリーグに改称し、1901年にメジャー・リーグ宣言をして、デトロイト・タイガースもMLB球団となった。開幕戦ではミルウォーキー・ブルワーズ(現在のボルチモア・オリオールズで現在のブルワーズとは関係はない)と対戦し、試合が行われたベネット・パークには1万人もの観客が集まった。試合は9回まで4対13と大量リードされていたが、9回表に一挙10点をあげて逆転し、14対13で劇的な初勝利を飾った。その後シーズンでは74勝61敗をあげ、リーグ3位(8チーム中)に終わっている。しかし、1902年から1904年まで3年連続で負け越し、優勝とは縁のない目立たないチームとしてその歴史をスタートさせた。
タイ・カッブの登場タイ・カッブ(1913年)タイ・カッブ1907年リーグ優勝時のメンバー

1905年タイ・カッブが入団する。タイガース首脳陣が、マイナーリーグの別のチームで目覚ましい活躍を見せていたカッブに目をつけ、タイガースの投手との間で交換トレードを行ったものだった。なお、カッブは入団の際に、恒例の新人歓迎(新人相手のいたずら)でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こしており、早くからその気性の激しさをチームメイトに知られることとなる。初年度こそ41試合の出場にとどまり、打率.240と本領を発揮できなかったが、2年目の1906年には98試合の出場で打率.316と好成績を残した。

1907年にはヒューイー・ジェニングス選手兼任監督に就任。この頃チームの打線を引っ張っていたのはカッブとサム・クロフォードだった。クロフォードは1903年にシンシナティ・レッズから移籍し、カッブが入団するまでチームの中心打者を担っていた。カッブはこの年、打率.350・119打点・49盗塁を記録し、首位打者打点王盗塁王をそれぞれ獲得。クロフォードも負けずに打率.323・81打点・102得点を記録した。投手陣でもビル・ドノバンとエド・キリアンがそれぞれ25勝をあげる活躍をみせ、チームも92勝58敗でリーグ初優勝を果たした。初出場となったワールドシリーズではシカゴ・カブスと対戦。第1戦では3対1とリードしていたが最終回に追いつかれ、延長12回の末に日没コールドで引き分けとなった。その後はカブス投手陣に完全に押さえ込まれ、4連敗でワールドシリーズ優勝を逃した。

1908年にカッブが打率.324・108打点で二冠王に輝くと、クロフォードも7本塁打で本塁打王に輝いた。シーズンではクリーブランド・インディアンスシカゴ・ホワイトソックスとの激しい首位争いを演じたが、最終的に90勝63敗で2年連続のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズは再びカブスとの対戦となった。第1戦では前年と同じく6対5とリードしていながら、最終回に一挙5点を奪われ逆転負けを喫し、続く第2戦も敗れた。第3戦で初勝利を飾るものの、第4戦、第5戦でも連敗を喫した。結局1勝4敗でまたしてもワールドシリーズ優勝を逃し、前年のリベンジを果たすことはできなかった。カッブの盗塁(1909年)

1909年にカッブは打率.377・9本塁打・107打点・76盗塁を記録し、史上唯一の四冠王に輝く。この頃にはカッブの勝利への執念は常軌を逸したものとなり、首位を争っていたフィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)との対戦では、盗塁の際にフランク・ベーカーの腕をスパイクで刺したり、エディ・コリンズをスライディングで転ばせるなど、半ば反則紛いのプレーを行った。他球団からのカッブの評判は最悪なものだったが、こうしたカッブの執念が実を結び、チームも98勝54敗でリーグ3連覇を果たした。ワールドシリーズではホーナス・ワグナー擁するピッツバーグ・パイレーツと対戦。両リーグの首位打者同士の対戦として注目を浴びる。シリーズでは交互に勝ち負けを繰り返し、最終戦までもつれ込む大混戦となった。しかし大一番の最終戦でタイガースが完封負けを喫し、3年連続でワールドシリーズ優勝を逃した。
1910年 - 1920年代

1910年以降、チームはリーグ優勝から遠ざかることとなるが、カッブの成績が落ち込むことはなかった。1907年から1915年までの9年連続、1917年から1919年までの3年連続で首位打者を獲得し、通算で12回の首位打者を獲得した(歴代1位)。1911年には当時のMLB最長記録となる40試合連続安打で打率.420という高打率を記録。通算打率は.366に上る(歴代1位)。1910年にはナップ・ラジョイと首位打者争いを繰り広げ、カッブに首位打者を取らせたくないが為に、他球団がわざとラジョイに安打を打たせるという事件もあった。最終的にカッブが首位打者となったが、後年になってカッブの記録に誤りが見つかり、ラジョイの打率がわずかに上回ったものの、公式の首位打者はカッブのまま変更されなかった。

1915年にはクロフォード(112打点)、ボブ・ビーチ(112打点)、カッブ(99打点)によるタイガースの外野陣トリオが打点ランキングを独占し、カッブは当時のMLB最多記録となる96盗塁を記録した。チームも100勝(54敗)をあげたが、ボストン・レッドソックスがそれを上回る101勝(53敗)をあげたため、リーグ優勝はならなかった。

1921年に長年に渡って監督を務めたジェニングスがチームを離れたため、代わってカッブが選手兼任監督に就任する。この年にはハリー・ハイルマンとカッブが打率1位、2位を独占し、ア・リーグ史上最高となるチーム打率.316を記録した。しかし、投手陣が全くふるわず、首位ヤンキースとは27ゲーム差の6位でシーズンを終えた。この頃からベーブ・ルース擁するヤンキースが圧倒的な強さを見せ始め、タイガースもカッブやハイルマンがチームを牽引するものの、優勝には全く手が届かないシーズンが続いた。


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