デイヴィッド2世_(スコットランド王)
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1357年10月に、10万マークを10年の分割払いという身代金でデイヴィッド2世は釈放された[8]ベリック条約 (1357年)も参照)。しかし、貧しいスコットランドに身代金の負担は大きく、またイングランドでの気ままな生活を懐かしがっていたデイヴィッド2世は、身代金の代わりにスコットランド王位をエドワード3世またはその子供に譲るという密約を交わし、1367年にイングランドへ戻った[9]。スコットランド議会はアーブロース宣言に従い、エドワード3世の息子クラレンス公ライオネルの次期王位を否定し、身代金を払い続けることで対抗した[10]

こうした中、1371年にデイヴィッド2世はエディンバラ城で死去した。1362年に死別した最初の妃ジョーンとの間にも、1364年2月20日に再婚した2番目の妃マーガレット・ドラモンドとの間にも子供はなく[11]、甥で摂政として実質的にスコットランドを統治していたロバート・ステュアートがロバート2世として王位に就き、ステュアート朝を開いた。
脚注^ David II king of Scotland Encyclopadia Britannica
^ 森、p. 133
^ a b 森、p. 134
^ a b c 森、p. 135
^ 森、p. 138
^ 森、pp. 138 - 139
^ 森、p. 140
^ 森、p. 142
^ 森、pp. 142 - 143
^ 森、p. 143
^ 1370年にマーガレットが流産したため、離婚した(森、p. 144)。

参考文献

森護 『スコットランド王室史話』 大修館書店、1988年










スコットランド王(1329年 - 1371年)
アルピン朝

ケネス1世848-858

ドナルド1世(英語版)859-863

コンスタンティン1世(英語版)863-877

エイ(英語版)877-878

ギリック(英語版)878-889

ヨーカ(英語版)878-889

ドナルド2世889-900

コンスタンティン2世(英語版)900-942

マルカム1世(英語版)942-954

インダルフ(英語版)954-962

ダフ(英語版)962-967

カリン(英語版)967-971

ケネス2世(英語版)971-995

コンスタンティン3世(英語版)995-997

ケネス3世(英語版)997-1005

マルカム2世1005-1034

アサル朝

ダンカン1世1034-1040

マリ朝

マクベス1040-1057

ルーラッハ1057-1058

アサル朝

マルカム3世1058-1093

ドナルド3世1093-1094

ダンカン2世1094

ドナルド3世1094-1097

エドガー1097-1107

アレグザンダー1世1107-1124

デイヴィッド1世1124-1153

マルカム4世1153-1165

ウィリアム1世1165-1214

アレグザンダー2世1214-1249

アレグザンダー3世1249-1286

ユングリング家

マーガレット1286-1290

ベイリャル家

ジョン・ベイリャル1292-1296

ブルース朝

ロバート1世1306-1329

デイヴィッド2世1329-1371

ベイリャル家

エドワード・ベイリャル1332-1356

ステュアート朝

ロバート2世1371-1390

ロバート3世1390-1406

ジェームズ1世1406-1437

ジェームズ2世1437-1460

ジェームズ3世1460-1488

ジェームズ4世1488-1513

ジェームズ5世1513-1542

メアリー1世1542-1567

ジェームズ6世1567-1625

チャールズ1世1625-1649

チャールズ2世1660-1685


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