デイトン_(オハイオ州)
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ゼネラル・アビエーション用のデイトン・ライト兄弟空港には、ライトBフライヤーのレプリカが置いてある[3]

また、デイトンは工業州オハイオの中でも有数の工業都市である。デイトンにはNCRをはじめ、レイノルズ・アンド・レイノルズ(英語版)、ケムステーション・インターナショナル、リバティ・バンク、ニューページ、ワークフローワン、ハフィ、レクシスネクシスといった企業が本社を置いている。工場は自動車関連が多く、デイトンを交通の最寄とした日系自動車工場も近隣にある。周辺の市町村にはジェットエンジン、プロペラなど航空関連の工場も数多い。
歴史ライト兄弟のいくつかの自転車ショップのうちデイトン市内で史跡として整備されている建物デイトン、1870年

デイトンはオハイオの州昇格の7年前、1796年4月1日に入植者の小集団によって創設された。翌1797年にはシンシナティとデイトンを結ぶ道が開かれ、デイトンはマイアミバレー入植の拠点となった。デイトンは1805年には正式な町になった。町の名は独立戦争大尉アメリカ合衆国憲法の起草者のひとりで、のちにニュージャージー州選出の上院議員となったジョナサン・デイトンにちなんでつけられた。

1830年代エリー湖とグレートマイアミ川を結ぶマイアミ・アンド・エリー運河が完成すると、デイトンからグレートマイアミ川を上り、運河を通じてエリー湖岸のトレドへ、さらにその先のエリー湖へと抜ける商取引ルートが確立された。また、グレートマイアミ川を下ればオハイオ川との合流点付近でシンシナティに通じていた。そのため、この運河を通じた水上交通路は1850年代まで西オハイオにおける主要な交通ルートであった。ハフマンプレーリーで飛行中のライトフライヤーII号

1903年12月17日、デイトンで育ち、デイトンで自転車屋を営んでいたウィルバーとオーヴィルのライト兄弟は、ノースカロライナ州キティホークに近いキルデビルヒルズの砂丘地でライトフライヤー号を飛ばし、人類初の有人動力飛行に成功した。その後ライト兄弟はデイトンに戻り、翌年には北西郊のハフマンプレーリーでライトフライヤーII号の飛行実験を行った。しかし1913年のグレートマイアミ川の大洪水によって、兄弟のキティホークでのグライダー飛行や、ハフマンプレーリーでの動力飛行実験を写したネガは損傷してしまった。

第二次世界大戦中、デイトンは軍需産業で栄えた。デイトンや近郊のオークウッドの住宅地ではデイトン・プランが進められた。これはモンサント社による、工業的にポロニウムを生産する方法の開発であった。同社で生産されたポロニウムは、広島市長崎市に投下された型のような初期の原子爆弾を起爆させるために用いられた。デイトンに本社を置くNCR社は、その頃は航空機のエンジンや爆弾の照準機、暗号解読器を生産していた。同社が生産した暗号解読器は、ナチス・ドイツ暗号機エニグマの暗号を解読する上で大きく役立った。

第二次世界大戦後もしばらくの間、デイトンは工業都市として繁栄を続けた。1960年には人口262,332人でピークに達した。しかしその後は中西部の多くの主要都市同様、デイトンも凋落を始めた。市の中心部の空洞化が進んだ上、人口や産業が東部や中西部から南部のサンベルト地帯に移っていったためである。人口は減り続け、2010年の国勢調査では141,527人と、ピーク時の半分近くにまで減少した。

1995年11月、デイトン近郊のライト・パターソン空軍基地で、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を停戦に導くデイトン合意が成立した。交渉は11月1日から21日にかけて同基地で行われた。この停戦合意は12月14日にパリで調印され、3年半続いた紛争を終わらせた。
地理デイトンの位置

デイトンは北緯39度45分46秒 西経83度11分48秒 / 北緯39.76278度 西経83.19667度 / 39.76278; -83.19667に位置している。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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