この一連の出来事が、クラゲスの昇進やヒトラーとの関係にどのような影響を与えたかは不明ではあるが、ヒトラーは1945年1月にブラウンシュヴァイク州政府の公職獲得を政権獲得のための功績と評し「これにより、私は国に大きな利益をもたらした」と述べている[8]。
クラゲスがナチ党指導部に特別に近かったことは、1937年2月にヒトラーから四カ年計画の解説者として任命され、州の外部にも影響力を有していたことから証明されていた[9]。ナチ党の副総統官房の文書によれば、1940年代までクラゲスは何度かヒトラーに直接、意見具申を行うことが許されていたという[10]。 1933年のナチ党による政権掌握後、クラゲスは党顧問弁護士のハンス・フランクをはじめとする、ドイツ法律アカデミーの創設メンバーの1人となった[11]。 1941年4月7日、アルフレート・ローゼンベルクは、ウクライナの国家弁務官統治区域(Reichskommissariat Ukraine)に『ドン=ヴォルガ』区を設置し、クラゲスをその国家弁務官として任命するよう提案していたが、6月にローゼンベルクはこの案を変更し、その地域をウクライナ国家弁務官委員に委任した。結果、東部占領地域でのクラゲスの委任は破棄された[12]。 クラゲスは1934年1月27日に親衛隊(SS)に入隊し(隊員番号 154,006)[13]、第49SS連隊配属の「親衛隊名誉指導者」となった。その後10月1日にSS上級地区『北西』配属の特務指導者となり、1936年4月1日より親衛隊全国指導者幕僚に所属した。[14]。1942年に親衛隊大将へ昇進した。また、1943年10月4日のポーゼンでの親衛隊指導者会議に出席し、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーによるユダヤ人問題の最終的解決を述べたポーゼン演説
ナチス体制下
1933年5月6日、クラゲスはブラウンシュヴァイク州首相に任命された[1]。就任後のクラゲスはブラウンシュヴァイクを、ナチズムの理想に基づいた模範的な都市へと再編するため、5月10日に、焚書を行った。クラゲスによるこの都市構想は、ブラウンシュヴァイクをベルリンの中央政府からできるだけ独立させ、クラゲス自身の「帝国」を確立することを目的としていた[16]。ヒトラーは、ブラウンシュヴァイクを文化の中心地とみなしておりハノーファーの都市圏に吸収されることはないとクラゲスに保証していた。そのため、ブラウンシュヴァイク州は、戦後も存続することとなった。
クラゲスは、自らの権力を拡大させるためにハノーファー地域からの独立を目指し、新たな大管区の設置を計画していた。計画された「オストファーレン大管区(Gau-Ostfalen)」は、ブラウンシュヴァイク市を大管区都とし、クラゲス自ら大管区指導者となる予定であった。なお、この新大管区の設置は認められなかったが、これらの計画にあたって、クラゲスはブラウンシュヴァイクの中産層や商工会議所、教会から支持を集め、結果として、クラゲスはブラウンシュヴァイクの政治的・経済的発展に貢献することになった。
1933年6月、ディートリヒ・クラゲス街が設置された。彼は、青少年指導アカデミー(ドイツ語版)、ドイツ航空実験所(ドイツ語版)、ドイツ手工業者学校、ヒトラーユーゲント学校『ペーター・フリース』(Gebietsfuhrerschule der Hitlerjugend ?Peter Fries“(ドイツ語版))、第2航空艦隊基地、国家狩猟場『ヘルマン・ゲーリング』(Reichsjagerhof ?Hermann Goring“(ドイツ語版))、SS士官学校『ブラウンシュヴァイク』、SS上級地区『ミッテ』本部、ベルンハルト・ルスト高等学校(Bernhard-Rust-Hochschule fur Lehrerbildung(ドイツ語版))など、党の重要な施設を次々と市内に建設した。
ブラウンシュヴァイクのインフラは、新しく建設されたアウトバーンとミッテルラント運河に接続していたことで恩恵を受けていた。また、ブラウンシュヴァイクは、ドイツ国防軍の再軍備の中心地となり、すぐ近くには、ヘルマン・ゲーリング国家工場やフォルクスワーゲン社の工場などが存在し、重要な産業拠点となっていた。 ナチ党の権力掌握以降、反体制派に対する最初の弾圧がブラウンシュヴァイクで行われ、その後、数年にわたってクラゲスによる政治的弾圧が続いた。 ハンス・レイノフスキー
クラゲスによる政治的弾圧
ハンス・レイノフスキー『ブラウンシュヴァイクにおけるテロル』のパンフレット
ブラウンシュヴァイクにおける政治的弾圧において、クラゲスは以下の犯罪に関与していた。
リーゼベルクの殺害『リーゼベルクの犠牲者』のための記念碑
ナチ党の政権掌握の直後、クラゲスが設置した「突撃隊補助警察」は政敵の情報を収集、報告していた。クラゲスによる政治的摘発はB.フリードリヒ・アルパース(自由国家の財務および法務大臣)とフリードリヒ・イェッケルン(ゲシュタポとブラウンシュヴァイクの警察長官)が主導し、労働組合員、SPD、KPD党員のみならず、ユダヤ人に対しても弾圧が仕向けられた。これらは並外れた残忍さで悪名を轟かせており、クラゲスは少なくともこれらの弾圧による死亡事件に責任があった。
エルンスト・ベーメベーメのレリーフ
弁護士でSPD党員のエルンスト・ベーメ(ドイツ語版)は、1929年から1933年まで、民主的に選出されたブラウンシュヴァイクの議員であったが、ナチ党の権力掌握後、彼はクラゲスによる弾圧にさらされることになった。1933年3月13日、彼はベーメの解任を命じナチ党が「保護拘置所」と呼んだ一般保険会社の建物へ連行された。しかし、同じくクラゲスに迫害された元ブラウンシュヴァイク首相のハインリヒ・ヤスパー(ドイツ語版)の尽力により、ベーメはすぐに釈放された。
しかし、ベーメは再び逮捕され、SPDのかつての出版社が存在した建物に連行され、拷問を受けた。彼の釈放後、ベーメはブラウンシュヴァイクを去り、彼は1945年に戻った。
戦後、1945年6月1日、ベーメは、ブラウンシュヴァイク市長に任命され、1948年12月17日まで職務についた。
ハインリヒ・ヤスパーハインリヒ・ヤスパーの胸像
ハインリヒ・ヤスパーは弁護士であり、SPDの党員であった。クラゲスの扇動により、ヤスパーは1933年3月17日に「保護拘留所」へ移され、議員職の放棄を強要するため拷問を受けたが、ヤスパーはそれを拒否した。その後、彼はSPD出版社の建物に連行され、4月19日の仮釈放までさらに拷問を受けた。
1933年6月26日、彼は再び逮捕され、ダッハウ強制収容所へ連行された。ダッハウ強制収容所からは、1939年に釈放された。