この際に「自分の制作したものはたとえ一部分たりとも他社に所有権を与えない」という「禁」を破り、ABCに遊園地の一部所有権を与え、契約金75万ドルを得た(後に豊かになったディズニーがこの一部所有権を買い戻した)。
スタンフォード大学の研究員の示唆により、ディズニーは計画中の遊園地のために、初めの計画の22倍に相当する160エーカー(730,000m2)の用地を、1エーカーあたり4000ドルでロサンゼルス近郊のアナハイムに取得した。
この土地は当時オレンジ畑とクルミ畑であったが、一年を通して好天に恵まれている上に、連邦ハイウェイ101(現在の州間高速道路5号線)の建設が予定されており、将来の発展と交通の便が見込まれる土地であった。
1954年7月21日に着工されて以降、ウォルト・ディズニーは建設現場にほぼ毎日訪れ、屈んで子供の視線になって、様々なアトラクションや各種施設が出来上がっていくのをチェック、建物や木々の配置の変更を自ら作業員に指示していたという逸話が残されている[4]。 1955年7月17日に正式オープンとなり、ウォルト・ディズニー本人をはじめ[5]、カリフォルニア州知事とカトリック教会の司祭、プロテスタント牧師、ユダヤ教の指導者がスピーチを行ったほか、フランク・シナトラも来場した。この日のオープンの模様は先述のテレビ番組『ディズニーランド』でアメリカ中に生中継され、約9000万人が視聴した[6]。ディズニーは、当日のスピーチにおいて、ディズニーランドは「大人はかつての記憶を懐かしみ、若者は未来への挑戦と約束を味わう」場所であり、「世界中の喜びと創造力の源泉になるという願いを込め、アメリカを築き上げた理想と夢と揺らがぬ事実に捧げられている」と、そのコンセプトを述べた[5]。同番組では、俳優のロバート・カミングスやロナルド・レーガン(後のカリフォルニア州知事、およびアメリカ合衆国大統領)、パーソナリティのアート・リンクレター
オープン
オープン当日は猛暑になった上に、パーク内の多くはまだ建設中であったこともあり、ガス漏れからウォーターディスペンサーの故障まで様々なトラブルが相次いだ。さらにオープン当初はジャングルクルーズや蒸気船マーク・トウェイン号など、11種類のアトラクションしかなかった上に故障も頻繁に起きたため、初日の様子はキャストから「ブラックサンデー(黒い日曜日)」[7]、メディアからは「ナイトメア(悪夢)」と称された[6][8]。
また、入場券の偽造や場内への無断侵入などにより[7][9]、収容人数15,000人に対して2倍近くの28,000人以上が来場した[6][7][9]。 その後も順調に来客者数を増やし、1956年に「オムニバス」、「ホースレスキャリッジ」、「トムソーヤ島いかだ」、「スカイウェイ」、「おとぎの国のカナルボート」がオープン、1958年に「不思議の国のアリス」、「帆船コロンビア号」がオープン[10]。TWA・ムーンライナーの更新が行われたほか、1959年には「ディズニーランド・アルヴェーグ・モノレール(現:ディズニーランド・モノレール)」や「サブマリン・ヴォヤッジ」、「トゥモローランド・オートピア」[10]などの、その後人気を博すアトラクションが追加されるなど複数のアトラクションが追加、更新された。
1950年代後半-1960年代