ディスプレイ_(コンピュータ)
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1969年に富士通が開発したグラフィックディスプレイF6233は米国Westinghouse社(en:Westinghouse)から輸入した22インチ円形で表示面がフラットなCRTを使用し、画面上に4,096×4,096の格子点を設けコンピュータからのデータをもとに格子点から別の格子点への線分を表示して図形を表現し、線分データは仮想格子上の位置と縦方向と横方向の長さデータで構成され、リフレッシュ・メモリとして最大16K語のコアメモリを使用し、約8,000本の線分を表示することが出来た。ロケットの設計や軌道計算、列車ダイヤの編成、自動車の設計や科学計算の結果表示等に利用された。同時に富士通が開発したグラフィックディスプレイF6232はテレビ型の17インチCRTを使用、仮想格子点は1,024×1,024でリフレッシュメモリは4K語のコアメモリを使用、約2,000本の線分を表示した[7]

グラフィックディスプレイは先端科学技術分野から次第に商業・生産等のビジネス分野へと応用範囲が広がりローコストで簡易な製品が求められた。1973年に富士通が開発したグラフィックディスプレイF9530は線分表示用のメモリとしてスキャンコンバータ管[8](当初はThomsonCSF社製を、次にRCA社製を輸入し、最終的には富士通社内で生産した)を使用した。線分データをスキャンコンバータ管に記録し、ラスタースキャンで読み出してCRTに表示した。

1970年代にテクトロニクス (Tektronix) 社が開発したグラフィックディスプレイT 4010、Tektronix 4010は高画質、ローコストで、光蓄積機能を持つ蛍光体を使用したCRT画面(en:Storage_tube)を用いており、リフレッシュ機能を省略した画期的な装置で世界中のユーザから評価され採用された。このテクトロニクス社製品に価格・性能で対抗すべく富士通は1980年にグラフィックディスプレイF9430を開発した。モノクロ型は14インチCRTで格子点は1,000×800、カラーは7色のカラーで格子点は500×400、各格子対応のリフレッシュ・メモリにICメモリを採用した。

1970年代後半からコンピュータを使用して設計作業の効率化を図るソフト (CAD : Computer Aided Design) が開発され広く使用され始めた。富士通は設計支援ソフトICADを開発し、当初はグラフィックディスプレイF9430を使用したが機能が低く、複雑な図形表示が困難等の問題があり、1986年に高性能・高機能のグラフィックディスプレイF6240を開発した。表示面に反射軽減処理をした20インチカラーCRTを使用、格子点は1,024×800、7色のカラー表示、図形表示に加えて文字ディスプレイF9526(前述)と日本語ディスプレイF6650(後述)の機能を持っていた。

1970年代や1980年代にはロッキード社開発のCADAMやダッソー社開発のCATIAなどの機能が高いCADシステムが各国の先進的な企業や研究所等で導入されていたが、これらのCADシステムはIBMコンピュータの上で動くように開発されていたのでグラフィックディスプレイもIBM仕様であることが要求された。この仕様を満足するディスプレイにはVector General社製グラフィックディスプレイVG8250もあった。

富士通はVB8250輸入して使用していたが、後にVector General社へ技術者を長期派遣し、技術移管を受けて1988年にグラフィックディスプレイF6245を開発した。20インチカラーCRTを使用し、多色の線画や1600万色のソリッド(en:SOLID)を表示した。
文字ディスプレイ
ブラウン管に加えた工夫

テレビ受像機画面表示はラスタースキャン方式であり、(1950年代や1960年代では)CRTの垂直方向(縦)で1秒間に40 - 60回の鋸歯状波、水平方向(横)で1秒間に3 - 10万回の鋸歯状波で偏向して画面全体を一様にスキャンしていた。(つまり、縦方向にはわずか40-60ほどの解像度、縦方向に40から60ドットしか描けないような低解像度であった)

こんな低い解像度でもテレビ受像機、つまり風景や人物の印象をぼんやりと表示するのに使う目的では使え、視聴者の頭脳の視覚中枢の側が映像の足りない部分を勝手に補完してくれて脳内でイメージが完成し一応使えたのだが、コンピュータ用ディスプレイに使うとなると小さな文字を表示しなければならず、当時のテレビ受像機の解像度では全然足りず小さな文字は表示できなかった。小さな文字を表示し文字を読むのに適したものとなるようにテレビ受像機を改造する必要があり、滲みの少ないクッキリした文字を表示するためにさまざまな技術的な工夫を加える必要があった。
単色表示ブラウン管と発色の選択

もともとブラウン管は単色でしか発光せず、テレビ受像機の「白黒テレビ」というのは(白黒写真に寄せて、違和感が無いように)白色に発光するものだったが、実はブラウン管の表示色はブラウン管の内側に塗布する蛍光材の種類で決まる。コンピュータディスプレイとして使う場合は白色でなくてもよかったので、発光色にはグリーン、アンバー(オレンジ)、白があった。当時、目が疲労しないようにとの配慮でグリーンやアンバー(オレンジ色)がしばしば採用された。[9]。(とはいえ、このタイプのブラウン管は画面全体であくまで単一色表示であり、文字ごとに色を変えることはできなかった)

en:IBM Displaywriter Systemのグリーンディスプレイ(1980年代のもの)。

アンバー色のディスプレイ。IBMポータブルPC(1984年発売)のもの。



解像度を上げる試み、変則ラスタースキャンの試み

1968年 - 1971年に富士通が開発したディスプレイF6221A・B・Dでは、通常のテレビ受像機とは垂直方向は1画面に20行を表示するために20段の階段波と文字を表示する1行分の細かい正弦波を重畳させた波形を、水平方向は1秒に1,000回の鋸歯状波で偏向する変則ラスタースキャンを行った[10]。1970年に富士通が開発した小型コンピュータ用ディスプレイF6222Aは、垂直水平の線で構成された『田』形状の図形に、斜め線で構成された『X』状の線を重ね合わせた形の基本図形を表示するためにラスタースキャンの垂直、水平方向に文字用の偏向を加えた極めて特殊なスキャン(走査)を行った[11]。1974年に富士通が開発したディスプレイF9520・F6221K以降はテレビと同様なラスタースキャンを採用した。
カラーテレビで解像度を上げる試み

NTSC方式時代のカラーテレビ(テレビ受像機)のCRTはコンピュータディスプレイに必要な1000字(50字×20行)の表示が出来るほどの解像度ではなかった。日本では[いつ?]NHKハイビジョンの試作機を、富士通関係者が見学して実用化の見通しを得た。NHKの試作機に使用されているCRTメーカーの三菱電機に富士通側が依頼しディスプレイ用の高解像カラーCRTの供給を富士通が受けた。その後松下電器が製造するコストダウンしたものを富士通は供給してもらった。カラーテレビの解像度は主にCRT表示面に近接してセットされているシャドウマスクのドット・ピッチに比例する。当時のテレビに採用されていたNTSC方式では2ドット/mmで、1974年に富士通が開発したディスプレイF6221Kの表示部はハイビジョン用CRTと同じく3ドット/mm、さらに高解像が必要な漢字表示のCRTは、富士通が東芝に開発を依頼し東芝から供給を受けた。1979年に富士通が開発した漢字を表示する日本語ディスプレイF6650は4ドット/mmであった。ハイビジョンの放送開始が1989年、その15年前の1974年に先行するかたちでコンピュータディスプレイのカラー化が実用化し、これが高解像CRT大量生産の基礎となりテレビ受像機の高品質化にも寄与した。



コンソール用ディスプレイVT100(1978年?)のディスプレイ。ブラウン管。ラスタースキャン方式。

1960年代前後のコンピューターシステムではコマンド(命令)パンチ・カード紙テープを作成し、読込装置(リーダ)でコンピュータに読み込んでいて、コンソールパネル(操作卓。あるいはen:Front_panel)に設置されたランプで表示された機械語を解読し、スイッチ類を操作してコマンドを入力しコンピュータを制御していた。これらの操作は煩雑で高レベルのスキルが必要、かつ時間も手間もかかるという欠点があり、この問題を解決するために応答が速く操作性が良いテレタイプ端末が設置されコマンドの入力やコンピュータ内のレジスタ情報を印字するようになった段階があったわけだが、このテレタイプ端末をディスプレイに置き換えたことで更に応答速度や操作性が向上した。
文字表示の試み

1960年代では、そもそもコンピュータが出力する文字データに応じた文字の形をディスプレイに表示する技術を根底から構築することから始めなければならなかった。

富士通が1968年に開発したF6221A(富士通の最初のディスプレイ)では、フライング・スポット管方式の文字発生方法(en:Flying-spot_scanner)を使用した。フライング・スポット管は高解像のCRTでフィルム・スキャナ等に使用される。フライング・スポット管の表示面にアルファベットと仮名文字を記録したフィルムを密着してセットし、リフレッシュメモリから1文字ずつ読み出し、フライング・スポット管でフィルム中のその文字の部分を選択してスキャンする。フィルムを通り抜けた光を光電子増倍管で受け、電気信号に変換し、増幅して表示部にビデオ信号を送る[12]

富士通の最初のディスプレイF6221Aは1968年に京都大学に納入された大型コンピュータFACOM230-60コンソールに使用された。総製造台数は2台、1台は京大に納入し、他の1台は富士通社内に設置しソフトウエアの開発やバックアップ用とした。F6221Aは入出力制御装置を介してコンピュータに接続され、表示部、文字発生部、キーボード(以下KB)と表示画面に対応した文字コード・データを蓄積するメモリ(以下リフレッシュメモリという)を含む制御回路で構成されていた。表示部はオレンジ色12インチCRTで1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名を表示する。CRT(ブラウン管)は電子ビーム(陰極線)を走査して文字の形を発光させるが、一瞬の間に消えてしまうのでリフレッシュメモリに蓄積した文字コード・データを1秒に25回以上読み出して文字発生部で文字の形に変換した信号をCRTに送り発光させて静止画像を得た。文字発生はフライングスポット管方式(後述)を使用した。KBはタイプライタ配列の文字鍵盤とファンクションキーで構成され、文字データとコマンドの入力に使用された。制御回路ではKBまたはコンピュータからの文字データをリフレッシュメモリに格納し、コマンドによりコンピュータ間の送受信制御やリフレッシュメモリ内の文字コードの追加・挿入・削除・訂正等の処理を行った。制御回路はトランジスタとダイオードの論理回路で構成した[13][14]

1969年に富士通が開発したディスプレイF6221BはコンピュータF230シリーズのコンソールとして使用された。総製造台数は約50台。表示部はグリーン色12インチCRTで1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名文字を表示する。文字発生は3インチ・モノスコープ管[15]を、リフレッシュメモリにはコアメモリを使用した[16]

1971年に富士通が開発したディスプレイF6221Dは2インチ・モノスコープ管を使用して小型化を計った。モノスコープは高解像のフライング・スポット管の技術を利用している。モノスコープ(en:Monoscope)もCRTであるが、アノードは蛍光体ではなく金属板があり、文字の形に穴の開いた金属板がアノードの金属板の前に平行に近接して設置されている。フライング・スポット管と同様に文字版を走査し、アノードから直接、電気信号を得て、表示部に送った[17][18]

1974年に富士通が開発したカラーディスプレイF6221KはコンピュータF230-8シリーズの標準コンソールとして使用された。表示部は高解像カラーCRT(後述)で、1000文字(50字×20行)のアルファベットと仮名文字を7色のカラーで表示した。当時まだモノクロディスプレイの時代であり、これが世界初のカラーディスプレイとなった。文字発生は半導体ROMを使用し、7×9ドットのマトリックスの必要な部分を表示して文字の形とした。リフレッシュメモリにはMOSメモリを使用した。
データ入力・検索用ディスプレイ

初期(1960年代前後)のコンピューターシステムでは、データやコマンドをパンチ・カードや紙テープを作成してリーダで読み込んで入力し、コンピュータで処理した結果の出力はラインプリンタ(en:Line_printer)で印字しており訓練されたオペレータが大量の伝票を入力していたが、入力データの確認や修正が簡単で容易であることや出力のスピードや消費する用紙の削減が要望された結果ディスプレイが使用されるようになった。

1973年に富士通が開発したディスプレイ・サブシステムF9520は電話回線および専用線経由でコンピュータに接続し、遠隔地からの入出力を可能にした。回線との通信を制御するコントローラ1台に対して最大32台のディスプレイやプリンタを接続した。表示部にはモノクロとカラーの2種があり、モノクロームは表示面をマット処理(磨りガラス状)したグリーン色17インチCRTを使用、天井灯等の反射光軽減を計り、1920文字(80字×24行)のアルファベットと仮名文字を、カラーは12インチで7色のカラーで表示する。文字発生は半導体ROMを使用し7×9ドット文字を採用した。リフレッシュメモリにはMOS技術を用いたメモリ(en:MOS_Technology)を使用し、マイクロプログラム方式を採用、簡易プロセッサとシンプルな機械語で記述した「簡易モニター」(機械語モニタ)および他のプログラムを用いる制御回路を独自に設計した。キーボードにはタイプライタ配列のキーの右側にテンキーや10数個のファンクションキーを配列してデータ入力の容易化を図った。テンキーの配列には電卓型と電話型があったが約30人に試行してもらって電卓型とした。総生産台数は8000台に達した[19]
IBMのディスプレイの席巻、その互換ディスプレイの開発

en:Category:IBM display devicesも参照のこと。

世界標準のディスプレイとしてはIBMのものがあった。1970年代はIBMのコンピュータ360シリーズ、さらに後継の370シリーズが好評で全世界を席巻しており、IBMのディスプレイIBM 3270が使われていた。

多くの業務用アプリケーションプログラムはIBMコンピュータの仕様で設計されていたので、このプログラムを利用するために日本のコンピューターメーカー各社も協同してIBM仕様をカバーするコンピュータ・システム(IBM互換機)を開発した。コンピュータ本体だけではなく周辺機器の仕様を合わせることが必要でIBMのディスプレイIBM 3270の公開された仕様をもとに富士通は1976年にディスプレイ・サブシステムF9525を開発した。表示部モノクロは17インチ、カラーは16インチを使用、制御回路には市販のモトローラ社製8ビットMPUマイクロプロセッサ)を使用した[20]

富士通はディスプレイ・サブシステムF9525の後継機として、1979年に省電力、省スペース、ローコスト化と機能強化を計ったF9526を開発した。表示部にはモノクロとカラーCRTに加えてネオンオレンジ色15インチPDP(プラズマディスプレイ)を追加し、HDLC回線への接続や、自己診断、トレース、折り返しテスト等のRAS機能(可用性)を充実した。市場のニーズは大きく、年間10,000台を超える生産をした(PDPの総生産数は100台弱)[21]
漢字ディスプレイ

電電公社(現 : NTT)からの開発依頼で富士通は試作機(特仕J2482号)を納入、続いて1972年に漢字ディスプレイF6570を開発した。いずれもグリーン色で標準型は17インチCRTに512文字(32字×16行)、ワイド型は横長20インチCRTに1,024文字(64字×16行)の漢字を表示した。ワイド型CRTはソニーガラスに依頼して電子銃を2個取り付けられる特殊構造のファンネル[22]を購入し富士通にて製品化した。文字円盤とビジコン(撮像管)を使用した文字発生装置からスキャンコンバータ管(前述)を使用した表示用メモリに書き込むものだった。透明なプラスチック板に5,376文字(円周方向に364字、半径方向に14行)の漢字が印刷された文字円盤をモータで高速回転し、目的の漢字がビジコン正面に来たときに同期してフラッシュ発光し、ビジコンに記録して読み出した[23]

1978年に富士通が開発した漢字ディスプレイF6580の標準型は672字(32字×21行)、ワイド型は1,344字(64字×21行)、漢字を32×32のドットで表示する。制御装置はコンピュータとの送受信や小型ディスクに収容した約7,000種の漢字のドットパターンを16台の漢字ディスプレイに供給する。また、1,024×1,024(ワイド型は2,048×1,024)ドットのリフレッシュ・メモリに線画を描く機能があり、新聞レイアウト等に使用された[24]



パーソナルコンピュータのディスプレイの歴史

1970年代後半に登場し1980年代に普及していったパーソナルコンピュータ(PC)では、家庭用のものでは周辺機器も含めた総計価格を一般家庭の人々も購入しやすい価格にするために、一般家庭もすでに所有しているであろう(当時のアナログ信号式の)家庭用テレビを接続できRF信号線で接続し低画質でかなり滲みのある表示をするものもあったが、ビジネス用、プロ用、高級機などから滲みの少ないコンピュータ専用ディスプレイを使うことが次第に一般化していった。

1976年発売のパーソナルコンピュータApple Iとモノクロモニター。

1977年発売のPET 2001Apple IIとモノクロモニタの組み合わせ、TRS-80とディスプレイ

PET 2001のグリーンディスプレイタイプの拡大写真。


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