ディスコ_(音楽)
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裏方であったジョルジオ・モロダーらの音楽プロデューサーたちは大きな役割を果たした。彼らは曲を書き制作を行い、画一的なシンセ・サウンドを確立していった。これらは「ディスコサウンド」の一部となった[18]。ヒットが量産されるのを見た非ディスコアーティストは、ディスコ絶頂期にディスコ・ソングを録音した。また『サタデー・ナイト・フィーバー』や、『イッツ・フライデー』(1978年) のような商業映画は、ディスコのマーケットを拡大する上で、大きな役割を果たした。

一方でディスコ・ミュージックや文化に対する激しい反発が起き、アメリカで1979年7月に起こったディスコ・デモリッション・ナイトはディスコ人気に打撃を与える1つの原因になった[注 4]。ただ、ディスコが衰退した大きな原因は、ヒットが大量に生まれ音楽ファンに飽きられたことと、ファンの需要は多様であり画一的なレコード供給ではダメだという点にあった。また、産業ロック[注 5]フュージョン[注 6]と同様に、ディスコに対しては音楽ファンと音楽評論家による商業主義との批判が、容赦なく浴びせられた。その結果、アメリカではディスコの人気が著しく低下したが、踊らせるためのダンス・ミュージックは1980年代以降も世界のディスコで存在し続けた。
ファンキー・ディスコ

ディスコは踊らせるための音楽であるため、どうしてもソウルやR&B、ファンクなどに比べると、軽く見られる傾向が強かった。しかし、一部のアーティストは黒人らしさを強調したファンキー・ディスコ(ブラック・ディスコ)の曲を発表した。この分野の例としては、イヴリン・キングの「シェイム」[19]D・トレインの「ユアー・ザ・ワン・フォー・ミー」、レイディオの「パーティー・ナウ」[注 7]、GQの「ディスコ・ナイト」、BB&Qバンドの「オン・ザ・ビート」、ダズ・バンドの「レット・イット・ホイップ」、シックの「グッド・タイムズ」[注 8]、ピープルズ・チョイスの「ドゥ・イット・エニウェイ・ユー・ワナ」[注 9]などがある。他にはヴァーノン・バーチ「ゲット・アップ」、ジミー・ボー・ホーン「スパンク」、ボハノン「レッツ・スタート・ザ・ダンス」があげられる[20][注 10]
ロックからのアプローチ

ディスコ・ブームが長期化するのを受け、ロックなど他ジャンルからディスコ・サウンドを取り入れる現象が見られた。

ロックの主な例としては、ローリング・ストーンズの「ミス・ユー」、バッド・カンパニー[注 11]の「ロックンロール・ファンタジー」、ELOの「シャイン・ラヴ」、キッスの「ラヴィン・ユー・ベイビー」、ロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」、ドゥービー・ブラザーズの「ホワット・ア・フール・ビリーヴス」、ブロンディの「ハート・オブ・グラス」、クイーンの「地獄へ道づれ[注 12]などがある。
ジャズからのアプローチ

ジャズでは、ハービー・マンの「ハイジャック」が1975年にヒットしたことが、他のジャズマンがディスコ曲を録音するきっかけとなった。クインシー・ジョーンズ(「スタッフ・ライク・ザット」)、ジョー・ファレル、ヒューストン・ピアソン(「ディスコ・サックス」)、クリーブランド・イートン[注 13]から、ベテランのベニー・ゴルソンソニー・ロリンズ[21]までが、ディスコ・ビートを取り入れた曲を発表した。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ トランペットトロンボーンサックスなどからなる複数の金管楽器奏者。
^ 「Let's All Chant」(邦題:チャンタで行こう! 1978年)ではクラリネットが使われている。
^ 「ユー・メイク・ミー・フィール」「ドゥ・ユー・ワナ・ファンク」などがヒットしたゲイのディスコ歌手。若くしてエイズで死去した
^ ラジオ局を解雇されたロックのDJなどが中心になって、ディスコのレコードを焼くなどの抗議行動をおこなった事件
^ ジャーニー、TOTO、スティックス、ボストンなどが代表的なバンド
^ リー・リトナー、ラリー・カールトン、アル・ディメオラらがフュージョンの音楽家として知られている
^ レイ・パーカー・ジュニアのグループ。同曲のボーカルはジェリー・ナイト。
^ 「ダンス・ダンス・ダンス」「おしゃれフリーク」などヒット曲多数。
^ フィリー・ソウルのグループ。ラップのニュースクール・グループ、ジャングル・ブラザーズが「ワットUウェイティング4」でサンプリングしている
^ 「記事に掲載しなかったファンキー・ディスコ曲に、ジミー・ジェイムズヴァガボンズ「ディスコ・フィーバー」、コンガス「ジャングル」などがある
^ 「キャント・ゲット・イナフ」が1974年にヒット。
^ 一晩に300万円パーティーで300万円を浪費したなどのスキャンダルが、メディアで報道された
^ 1978年の「バマ・ブギー・ウギー」がファンキーディスコの佳曲である。

出典^ Disco after dark 2023年5月31日閲覧
^ TSOP ルーツ・オブ・ディスコ 2023年5月26日閲覧
^ Turn the Beat Around: The Secret History of Disco 2021年10月2日閲覧
^http://eow.alc.co.jp/search?q=discotheque
^ (1995) "Out in Culture: Gay, Lesbian and Queer Essays on Popular Culture", ISBN 030433488X, 9780304334889, p.439:(Disco 1990). "Although the disco pulse was born in the small gay black clubs of New York, disco music only began to gain commercial attention when it was exposed to the dance floor public of large, predominantly white gay discos."
^ (1998) "The Cambridge History of American Music", ISBN 0521454298, 9780521454292, p.372: "Initially, disco musicians and audiences alike belonged to marginalized communities: women, gay, black, and Latinos"
^ (2007) "The 1970s", ISBN 0313339198, 9780313339196, p.203-204: "During the late 1960s various male counterculture groups, most notably gay, but also heterosexual black and Latino, created an alternative to rock'n'roll, which was dominated by white ? and presumably heterosexual ? men. This alternative was disco,..."


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