ディスコ
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一般的には、1968年昭和43年)に赤坂に開店した「ムゲン」[6]歌舞伎町の同業同名店とは営利無関係、1987年閉店)と赤坂の「ビブロス」がソウル/R&Bの聴けるディスコのルーツといわれている。ムゲンでは1970年代半ばから、コンファンク・シャンがハウスバンドとして2年ほど演奏していた。当時はエレキバンドが出す大音響の演奏に合わせて踊るゴーゴー喫茶が流行しており、ゴーゴーガール目当てに通う者もいたが、それらの店とは一線を画し、主に芸能人やモデル、富裕層や米兵を含めた外国人客を主な客層として一気に時代を先んじた存在になった。当時の「ムゲン」は、渋沢龍彦三島由紀夫三宅一生加賀まりこ沢田研二安井かずみ前野曜子グッチ裕三など著名人で賑わっていたという。沢田研二や萩原健一も「ムゲン」に行ったことはあるが、回数は少ないとみられる。この頃のディスコは生バンドとレコードの両立であった。1960年代のディスコはジェームス・ブラウンやテンプテーションズなど、本物のソウルをかけていた。

地方都市でも、1967年昭和42年)6月23日には広島市中区鉄砲町に「JAZZ FIVE」が開店し、アメリカの最新の曲を流して、若者や米兵などから人気を集めた[7]
1970年代

1971年昭和46年)、六本木にオープンした「メビウス」が、日本で最初にレコード演奏のみで営業した(1968年昭和43年)に開店した赤坂「ビブロス」も開業当初からレコード演奏のみ)。これは生バンドの人件費を抑えるための方策であったが、結果的に現在のディスコやクラブと同じくレコード演奏のみのスタイルを確立した。

第1次ディスコブームは、1975年昭和50年)から1976年昭和51年)ごろにかけての時期である。第2次ディスコブームは、1977年昭和52年)から1979年昭和54年)にかけて巻き起こった。DDサウンドの「1234ギミー・サム・モア」(1977年)やアラベスク「ハロー・ミスター・モンキー」などのディスコ・ヒットが誕生し、日本で商業的なヒットを出した。1978年昭和53年)にはジョン・トラボルタ主演の映画『サタデー・ナイト・フィーバー[8]が日本公開されて大ヒットした。同名の映画サウンドトラック盤には、タヴァレスイヴォンヌ・エリマンクール&ザ・ギャングKC&サンシャイン・バンド、トランプスらの楽曲が収録された。この映画のヒットにより「不良のたまり場」というディスコへの偏見がやや薄れて大衆化した[9]。その流行で、新宿渋谷、六本木、池袋などの繁華街に多数のディスコが開業し、カッコよさに憧れた若者が連日ディスコに通いつめて、一晩中ディスコダンスで「フィーバー(する)」は流行語となり社会現象と化した。1975年ヴァン・マッコイハッスル」のヒットに追随する形で、1976年から日本でも世界標準の品質を目指したディスコ音楽が制作された。サトシ・ハッスル・ホンダのプロデュースによるファンキー・ビューロー、筒美京平のプロデュースによるDr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレス、サトシ・ハッスル・ホンダと林哲司のプロデュースによるイースタン・ギャング、日本主導の制作でアメリカでの発売を実現したラブ・マシーンなどのユニットが和製ディスコ曲を次々とリリースした[10][11]。和製ディスコ曲は日本市場における流通が主であったが、いくつかの曲は海外でも知られるようになった[12]

また、1970年代終わりから1980年代初めにかけては、ディスコの定番となる曲が数多く生まれた時代でもある。Chicのような、本物のブラック・ミュージックも存在したが、多くはドナ・サマー[13]Bee Geesアラベスクジンギスカンなどは、本物の黒人音楽とは似ても似つかない、踊らせることだけが目的のサウンドだった。ゲイディスコの中で、日本でもヒットを出したのは、ヴィレッジ・ピープルだった。彼らのヒット曲「Y.M.C.A.」は、西城秀樹がゲイカルチャーとしての背景を漂白し、若者向けポップ歌謡「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーした。ヴィレッジ・ピープルは「マッチョ・マン」「イン・ザ・ネイヴィー」も日本でヒットさせている。しかし歌っているのはスタジオ・ミュージシャンであり、彼らの多くはゲイではなかった。また、やはりゲイ・ディスコの歌手シルヴェスターは、日本ではヒットを出せなかった。

ニューウェイブ・ディスコではYMOなどのテクノ・ポップや、マッドネススペシャルズなどのツートンスカも流行した。原宿歩行者天国(ホコ天)でラジカセを囲み奇抜な衣装で踊る竹の子族が流行ったのもこの頃である。彼らはアラベスク、ジンギスカンなどを好んだ。

この頃の東京を代表するディスコは、新宿の「ツバキハウス」(1975年開業)、「ワンプラスワン」、上野の「ブラックシープ」、六本木の「キャステル東京」(1974年開業)などであった。しかしながら1982年(昭和57年)に刑事事件が発生したことも1つの原因となり、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取り締まりが強化され、新宿のディスコは衰退した。

ディスコ、特に1970年代から1980年代初期の特徴の1つに「チークタイム」がある(「チーク」はの意味)。店のボルテージが最高潮を迎え、全力を出し切って踊った後に設けられる、チークダンスの時間である。様々な色をきらめき放ち、空間を鮮やかな光線でみたしていたミラーボールが一転、メロウな曲とともに、穏やかな光を投げ始めると、男女が頬を寄せ合って抱き合わんばかりに密着して体を前後に揺らし始める。粋な計らいの文化だが、ディスコの衰退とともに昔話になりつつある。当時は、つのだ☆ひろの「メリージェーン」がディスコのチークタイムで流されることで有名となった。
1980年代

1980年代のディスコブームを象徴するのが六本木スクエアビルである。地下2階から10階までの12階中、1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになった。中でもNASAグループの「ネペンタ」「ギゼ」などが人気店となった[14]。六本木スクエアビル以外では、六本木「エリア」の前身である日拓系列の「マジック」、伝説的な存在となった六本木「キサナドゥ」「ナバーナ」、外人顧客が中心の老舗「レキシントンクイーン」などが、『JJ』誌や『Fine』誌などの女性向けファッション雑誌に紹介された。新宿ディスコでは「ゼノン」でお馴染みのジョイパックグループの渋谷「ラ・スカーラ」が人気店となった。

これらのディスコに共通するのがサーファーブームに乗った「サーファーディスコ」である。そしてこの頃のディスコの主役は女子大生であった。田中康夫の『なんとなく、クリスタル』や深夜番組『オールナイトフジ』が大きな影響力を及ぼした時期であった。ファッションはスポーツ系のブランド服を基本として、レイヤーカットのヘアースタイルの女子高生、女子大生を中心にしたものだった。六本木を震源地に広がったサーファーディスコブームであったが、当時の流行発信性の高かった六本木地域から、徐々に渋谷、新宿へと文化が移転するにあたり大衆化が進み、そのパワーは次第に廃れていった。新宿の「PUKA PUKA」はそんなサーファーディスコの最後の砦であった。サーファーディスコはカフェバーやプールバーの人気と共に終焉を迎えた。

1980年代中期からハイエナジー(ユーロビート)ブームが起こってディスコで人気となり、第3次ディスコブームが発生する。当時のディスコ音楽はよりポップス色を強める一方で、デッド・オア・アライヴリック・アストリーカイリー・ミノーグバナナラマに代表されるストック・エイトキン・ウォーターマン(PWLサウンド)によるプロデュース作品や、マイケル・フォーチュナティなどのイタリアからのユーロビートに代表されるような、コンピュータを用いた打ち込み系の音楽が多く使用され始めるようになる。


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