ディエゴ・マラドーナ
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マラドーナはブラジルの「黄金の中盤」のパス回しに翻弄されており、本当はパウロ・ロベルト・ファルカンに対して怒っていたと述べている[60]。チームは1-3で敗れ、大会を去ることになった。
1986 FIFAワールドカップ1986年 FIFAワールドカップ

1985年5月に約3年ぶりに代表に復帰。カルロス・ビラルド代表監督はマラドーナをキャプテンに指名し[61]、その個人能力を活かすチーム作りを行った[62]。しかし、マラドーナは右膝に負傷を抱え、チームの成績も芳しいものではなく当時のチームはメディアから「史上最弱」と酷評されていたが[63]1986 FIFAワールドカップが始まると一転して華々しい活躍を見せた。グループリーグ初戦の韓国戦では、チームの3ゴールすべてをアシストした。イタリア戦ではボレーで同点ゴールを決め、ブルガリア戦でも1アシストを記録した[64]準々決勝、イングランド戦での「神の手」ゴール。

準々決勝のイングランド戦試合前には、3年前のフォークランド紛争(マルビナス戦争)の因縁もあって両国メディアの舌戦が続いたが、その試合はいわゆる「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルを記録した試合として知られている。後半6分、ペナルティエリアに走りこんだマラドーナと浮き玉を処理しようとしたイングランドのGKピーター・シルトンと交錯したが、マラドーナは空中のボールを素早く左手ではたき、ボールはそのままゴールインした。シルトンをはじめイングランドの選手はマラドーナのハンドを主張したが、審判はマラドーナの得点を認めた。その4分後には、センターライン付近でパスを受けると単独で60m近くドリブルし、5人を抜いて無人のゴールにボールを蹴りこんだ[65][66]。前者の得点については「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」という趣旨の発言をしたことから「神の手」ゴールという呼称が広まった[67]。2007年には後者の得点がイギリスのワールドサッカー誌によって史上最優秀得点に選ばれた[68]。「1986 FIFAワールドカップ準々決勝 アルゼンチン対イングランド」も参照優勝トロフィーを掲げるマラドーナ(1986年)

マラドーナは準決勝のベルギー戦でも2得点を挙げ、決勝の西ドイツ戦ではローター・マテウスのマークにあいながらも、ホルヘ・ブルチャガに絶妙なラストパスを供給し決勝点をアシストした。マラドーナは大会中チームの総シュート数のうち約半分を放ち、全14得点のうち5得点5アシストを記録[69][70]。アルゼンチンを2度目のワールドカップ優勝に導いた事から大会最優秀選手に選ばれ、同大会は「マラドーナのための大会」と呼ばれ、「たった一人の力で自国を優勝に導いたのは(1962年大会の)ガリンシャ(ブラジル)と1986年大会のディエゴ・マラドーナだけだ」と評する者も存在する[71]
1990 FIFAワールドカップ

マラドーナは、本大会では不調といわれながらもグループリーグ全試合に出場し、ソ連戦では自陣ペナルティエリア内で手を使ってシュートを防ぐ2度目の「神の手」を見せた。決勝トーナメント1回戦のブラジル戦では、ドリブルで相手4人を引きつけながら右足でクラウディオ・カニーヒアへ絶妙のパスを送り、決勝ゴールをお膳立てした。

準決勝は、所属クラブの本拠地ナポリで開催国イタリアと対戦した。試合前にイタリアファンを煽るような発言をしたことや、PK戦で最後に蹴って勝利を決めたのがマラドーナであったことから、イタリア国民やSSCナポリファンとの関係が悪化した。決勝の西ドイツ戦ではアルゼンチンの国歌吹奏に場内から大ブーイングが浴びせられ、マラドーナはカメラに向かって「イホス・デ・プータ(英語の『サノバビッチ』に相当する侮蔑語)」と吐き捨てた[44][72]。試合ではギド・ブッフバルトにほぼ完全に抑えられた[73]。敗戦後は人目をはばからず号泣し、イングランド代表のポール・ガスコインが準決勝で流した涙とともに人々に記憶されている[74]
1994 FIFAワールドカップ

薬物使用によるブランクを経て、1993年2月に代表復帰。アルフィオ・バシーレ代表監督はマラドーナ抜きのチーム編成を進めていたが、南米予選コロンビア戦で完敗したため、オーストラリアとの大陸間プレーオフでレギュラー復帰が実現した。


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