ディエゴ・マラドーナ
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同年11月14日のCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦でプロ初ゴールを決めた[30]

プリメーラ・ディビシオン(国内1部リーグ)のナショナルリーグにおいて翌1977年は49試合に出場して19得点、1978年は35試合に出場して26点を挙げ[31]、1979年に26得点、1980年に43得点を挙げて得点王を獲得[31]。1979?1981年にアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年?1980年に南米年間最優秀選手賞を受賞した[31]。アルヘンティノス時代は166試合に出場して116ゴールを挙げた[32]
ボカ・ジュニアーズボカ・ジュニアーズ時代(1981年)

1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。4月10日のスーペルクラシコではボカの全3得点を挙げる活躍でCAリーベル・プレートを下し、移籍してすぐにファンのアイドルになった[33]

この年にはリーグ優勝を果たしたが、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってボカの財政状況は悪化し、マラドーナも20歳にしてリーグ戦200試合以上に出場していたことから疲労がピークに達していた。1982年5月末、約700万ドルの移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍することで合意に達した[34]
FCバルセロナFCバルセロナ時代(1982年)

1982年6月4日、マラドーナはFCバルセロナとの移籍契約に調印し、アルヘンティノスに移籍金510万ドル、ボカに移籍金220万ドルが分割払いで支払われた[35]カンプ・ノウで行われたお披露目にはクラブ新記録の5万人が詰めかけた[36]。1982-83シーズン、開幕戦となったバレンシア戦で移籍後初ゴールを決めると [37]、序盤のバルセロナダービーでは決勝ゴールを決め、その2日後のUEFAカップウィナーズカップ2回戦・レッドスター・ベオグラード戦では2得点を決めて華々しいスタートを切ったが[38]、度重なる夜遊びやコカイン使用疑惑でホセ・ルイス・ヌニェス会長との関係が悪化し始めた[39]。マラドーナもウイルス性肝炎や鬱状態などの病気に悩まされ、クラブもリーグ4位となったがコパ・デル・レイ決勝でレアル・マドリードに2対1で優勝を手にした。
度重なるマークによる乱闘騒ぎ

1983-84シーズン、セサル・ルイス・メノッティが監督に就任すると、9月のハビエル・クレメンテ率いるビルバオ戦でゴイコエチェアからタックルを受けて左膝腱を損傷、3か月欠場の深手を負い、わずか勝ち点1差でビルバオに優勝を逃してしまう。またコパ・デル・レイ決勝のビルバオ戦でも、度重なる激しいマークに遭い0対1で得点のチャンスを逃した。そのマラドーナも試合直後に度重なるマークに激怒し、ジャージ姿の相手選手の顔面を膝蹴りを見舞い、気絶させて乱闘騒ぎを起こしたことが決定打となりヌニェス会長との関係が最悪な状態にまで陥り、その後スペインサッカー連盟から3か月間出場停止を言い渡された。そこで副会長でヌニェス会長の右腕でもあるジョアン・ガスパールがクラブに留まる気があるかを尋ね、「残留するのなら、会長との仲を取り持つ」と5年の契約延長を提示したがマラドーナがそれを拒否したため、クラブは放出の断を下した[40]
SSCナポリSSCナポリ時代。母国代表の同僚ダニエル・パサレラ(右)と(1985年)

1984年6月29日、イタリア・セリエASSCナポリへの移籍が実現し、サッカー史上最高額の推定移籍金1300万ドルがFCバルセロナに支払われた[40]。7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見にはスタジアムに7万人のサポーターが駆け付け[41]、マラドーナもヘリコプターからピッチに降り立つパフォーマンスで登場し[42][43]、「僕はナポリの貧しい少年たちのアイドルになりたい。なぜって彼らは、アルゼンチン時代の僕と同じだからだ」とコメントした[44]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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