ディエゴ・マラドーナ
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2019-2020 ヒムナシア・ラ・プラタ[2][3]
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 - 2020年11月25日)は、アルゼンチンブエノスアイレス州ラヌース出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダーまたはフォワード。身長165cm、体重69 kg。
概要

1976年にアルゼンチン・リーグにおいて史上最年少でプロデビューを果たし、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回に貢献した立役者となる。アルゼンチン代表においても1977年に歴代最年少(16歳)で出場、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権を優勝、FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場し、1986年大会ではチームを牽引して優勝に導き、大会MVPに選出された。同大会の準々決勝イングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは、マラドーナを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。このような実績からペレと並んで史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている[4][5]

現役引退後は監督として複数のクラブを歴任、2008年にはアルゼンチン代表監督に就任。2010年大会では南米予選を突破したが、本大会では準々決勝で敗れ、同大会終了後の2010年7月に解任された。2020年11月25日、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した[6]

選手時代からたびたび違法薬物の使用が取り沙汰され、現役引退後も入退院を繰り返したが、引退から時間が経った現在でもマラドーナの信奉者は多くアルゼンチンではマラドーナのことを「神の子」と崇拝する宗教が生まれ、ナポリでは旧市街にマラドーナを讃える祭壇が設けられているなど、高い人気を誇っている[7]
クラブ経歴
幼少期

マラドーナは1960年10月30日、ブエノスアイレス南部のラヌース (Lanus) に貧しい家庭の子として生まれた[8]。住んでいた掘立小屋にはぬいぐるみやゲームもなかったが[9]、ひとり立ちができるようになった3歳の時に叔父からサッカーボールをプレゼントされ、自宅近くにあるゴミ捨て場の近くでサッカーボールを蹴るようになった[9]

地元の小学校に入学してすぐに仲良くなった友人と6歳のころから毎日ボールをけって遊ぶようになったが[10]、9歳の時にAAアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームであるセボリータス(Los Cebollitas、小さな玉葱)に、すでに同チームでプレーしていた友人がコーチに「自分より巧い友達」としてマラドーナの加入を推薦し[11][12]、練習でのトレーニングマッチで卓越した動きを見せてコーチを驚かせ[13]、その技術を認められて同チームに加入した[13][14]。セボリータスはマラドーナの加入後大差での連勝を続け、136試合とも151試合ともいわれる連続での無敗記録を作った[15]

幼少時代はペルーサ(Pelusa、毛深い奴/縮れ髪)と呼ばれるおとなしい少年だったが[16]、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けており[17][18]、現地の新聞で「将来有望な名手」として紹介された[18]。また、土曜日の人気娯楽番組への出演を依頼され、サッカーボールだけでなくオレンジや空き瓶でのリフティングを披露した[17]。13歳時にアルゼンチン政府主催で行われた公式の大会で準決勝進出を果たした際には、マラドーナは新聞で「ペレの弟」と紹介された[19]

1973年、12歳の時にはCAリーベル・プレートから契約金200万ペソでのオファーがあったが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまった[20][21][22]。少年時代の憧れの選手はCAインデペンディエンテリカルド・ボチーニだった[23]
プロデビュー期ユース時代
(1973年)

13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念することとなった[24]。1974年にAAアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし[25]、15歳の誕生日にはクラブから家族全員が住めるほどの大きさのアパートが提供された[26]。在籍時にはエル・ピベ・デ・オロ(El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ)という愛称を授かった[27]

1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11か月でタジェレス・デ・コルドバ戦にて初出場[28]。この試合は0-1でタジェレスにリードを許している場面での後半に途中出場し、交代してすぐにゲーム全体の流れを変える動きを見せ、タジェレスの選手から執拗にマークを受けた[29]。試合はこのまま終了して敗れたものの、地元の新聞からも試合での動きを高く評価された[29]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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