ディエゴ・マラドーナ
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1987年7月28日にフィデル・カストロキューバ議長と初めて対面して以来[133]友人関係を築いており、1989年の自身の結婚式にはカストロを招待した[134][注 2]。キューバへの敬愛の印として左脚にカストロ、右肩にチェ・ゲバラの刺青を彫り込んでいる。2000年にウルグアイ滞在中に心臓発作を起こした時には、カストロを頼ってキューバの医療施設に入所し[135]、その後数年間はカストロの世話になった。『10番の夜』の12回目放送ではカストロにプレゼントされたジャケットを羽織って登場し、カストロに対する思いや自身の思想観を語った[136]
カモッラ一家との関係
SSCナポリへの移籍金はナポリのマフィア組織カモッラ一家によって捻出されたという説がある[137]。1986年にカモッラ一家の中の一族であるジュリアーノ・ファミリーと初対面し、その後はジュリアーノ家の結婚式やカモッラ一家のパーティに熱心に参加した[138]。1991年初頭、カモッラ一家の手の内にある売春宿から相当量のコカインを入手している事実が発覚し、マフィアの殺し屋とともに麻薬売買に手を出しているというマフィア側の供述とともに法的な追及がなされた[139]
ラモン・ディアスとの関係
ラモン・ディアスとマラドーナは犬猿の仲だとされ、1986 FIFAワールドカップと1990 FIFAワールドカップへのディアスの出場をマラドーナが妨げたと言われることがある。しかし、マラドーナは自伝の中で不仲説を否定し、カルロス・ビラルド監督にディアスの招集メンバー入りを進言したと主張している[140]
リオネル・メッシとの関係
左利きで小柄であること、ドリブルとスピードにおいてずば抜けていること、FCバルセロナでのプレー経験があること、アルゼンチン人であること、フル代表デビュー戦がハンガリー戦であることなど、リオネル・メッシとマラドーナにはいくつかの共通点がある[141]。2007年4月18日のFCバルセロナヘタフェCF戦において、メッシがマラドーナの「5人抜き」ドリブルそっくりのプレーを見せ[114]、メッシは「ゴールはディエゴ(マラドーナ)に捧げる」と発言したが、マラドーナは「比較は大げさすぎる。僕のゴールとは関係ない」と冷たくあしらった[142]。さらに、同年6月9日のバルセロナ・ダービーにおいてメッシは「神の手」ゴールそっくりのプレーを見せた[143]
マラドーナはメッシと自分との比較について「僕のほうが上だと思うよ」[144]と一旦は発言したが、後にこれを否定して「メッシの母親ならば、レオが一番と答えるだろうね」とペレの時と同じような発言をし、更に「僕は彼を愛している。自分の夢を語るならば、バルセロナ指揮官としてメッシを指導することだ」[145] と述べている。メッシは2006年に受けたインタビューで、この時点で自身とマラドーナにはあまりにもキャリアの差がありすぎるとのことで自身がマラドーナと比較されることを嫌い、インタビュアーからこの質問をされると何度も「それだけはやめて!」と懇願した[146]。一方で、雑誌やテレビの取材で自身のプレーについて、「マラドーナのプレーを特に意識したわけではない」と語っている[114]。ゲーリー・リネカーはマラドーナとメッシの比較について、「ディエゴを超える選手なんて絶対に現れないだろうと思っていた」としつつ、「今でこそ、トップレベルでのキャリアの長さやピッチ内外での素行の良さを含めて、ごくわずかにメッシが上回っているような気はする」と述べている[147]
ホルヘ・ブルチャガとの関係
代表チームで共にプレーしたホルヘ・ブルチャガとは、ピッチ上で相性の良いプレーを見せた[148]。このことから、SSCナポリがマラドーナと共にプレーさせるため、ワールドカップ・メキシコ大会後に獲得に動いたこともあった[149]。マラドーナはブルチャガについて「自らの副官とも言える存在であった。」と話した[150]
メディアとの関係

1994年2月、自身の別荘に押しかけた報道陣200名に対して空気銃を乱射し、数名に軽症を負わせた。記者によって告訴され、アルゼンチンサッカー協会のフリオ・グロンドーナ会長などはマラドーナの罪を重く見たが、アルゼンチン国民やカルロス・メネム大統領はより同情的で法的な処置は未決定となった[151]

1996年、イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙の記者ジミー・バーンズによってマラドーナの評伝が出版されたが[152]、薬物使用問題やFIFAの権力構造について踏み込んだ追及をしているため、アルゼンチン国内では出版を快く思われなかった[153]。2000年には自伝『YO SOL EL DIEGO』が出版され、それ以後もマラドーナに関する多数の著作が世に出ている。

2001年にはイタリアのマルコ・ポンティ(Marco Ponti)監督作の映画『サンタ・マラドーナ』が公開された[154]


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