ディエゴ・マラドーナ
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地元の小学校に入学してすぐに仲良くなった友人と6歳のころから毎日ボールをけって遊ぶようになったが[10]、9歳の時にAAアルヘンティノス・ジュニアーズの少年チームであるセボリータス(Los Cebollitas、小さな玉葱)に、すでに同チームでプレーしていた友人がコーチに「自分より巧い友達」としてマラドーナの加入を推薦し[11][12]、練習でのトレーニングマッチで卓越した動きを見せてコーチを驚かせ[13]、その技術を認められて同チームに加入した[13][14]。セボリータスはマラドーナの加入後大差での連勝を続け、136試合とも151試合ともいわれる連続での無敗記録を作った[15]

幼少時代はペルーサ(Pelusa、毛深い奴/縮れ髪)と呼ばれるおとなしい少年だったが[16]、10歳の時にはプロリーグ戦のハーフタイムショーでリフティングを披露して拍手喝采を浴びるほどの技術を身に付けており[17][18]、現地の新聞で「将来有望な名手」として紹介された[18]。また、土曜日の人気娯楽番組への出演を依頼され、サッカーボールだけでなくオレンジや空き瓶でのリフティングを披露した[17]。13歳時にアルゼンチン政府主催で行われた公式の大会で準決勝進出を果たした際には、マラドーナは新聞で「ペレの弟」と紹介された[19]

1973年、12歳の時にはCAリーベル・プレートから契約金200万ペソでのオファーがあったが、クラブや父親が時期尚早だと反対したためセボリータスにとどまった[20][21][22]。少年時代の憧れの選手はCAインデペンディエンテリカルド・ボチーニだった[23]
プロデビュー期ユース時代
(1973年)

13歳の時に学校を辞めてサッカーに専念することとなった[24]。1974年にAAアルヘンティノス・ジュニアーズのトップチーム昇格を果たし[25]、15歳の誕生日にはクラブから家族全員が住めるほどの大きさのアパートが提供された[26]。在籍時にはエル・ピベ・デ・オロ(El Pibe de Oro、ゴールデンボーイ)という愛称を授かった[27]

1976年10月20日、アルゼンチン・リーグ史上最年少の15歳11か月でタジェレス・デ・コルドバ戦にて初出場[28]。この試合は0-1でタジェレスにリードを許している場面での後半に途中出場し、交代してすぐにゲーム全体の流れを変える動きを見せ、タジェレスの選手から執拗にマークを受けた[29]。試合はこのまま終了して敗れたものの、地元の新聞からも試合での動きを高く評価された[29]。同年11月14日のCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ戦でプロ初ゴールを決めた[30]

プリメーラ・ディビシオン(国内1部リーグ)のナショナルリーグにおいて翌1977年は49試合に出場して19得点、1978年は35試合に出場して26点を挙げ[31]、1979年に26得点、1980年に43得点を挙げて得点王を獲得[31]。1979?1981年にアルゼンチン年間最優秀選手賞、1979年?1980年に南米年間最優秀選手賞を受賞した[31]。アルヘンティノス時代は166試合に出場して116ゴールを挙げた[32]
ボカ・ジュニアーズボカ・ジュニアーズ時代(1981年)

1981年2月13日、幼少時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへのレンタル移籍交渉がまとまった。アルヘンティノスへ400万ドルの移籍金が支払われ、さらにボカはアルヘンティノスの負債110万ドルを肩代わりすることになった。


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