ディアドコイ戦争
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権力の安定を求めていたペルディッカスは、当初アンティパトロスとの連携を狙いその娘ニカイアとの婚約を取り付けていたが、それを知ったアレクサンドロス大王の母オリュンピアスが彼に自分の娘、すなわち大王の妹クレオパトラとの結婚を勧めてきた。これに魅せられたペルディッカスはひとまずニカイアと結婚するが、即座に離婚してクレオパトラと結婚することを計画した。このことを知ったアンティパトロスは激怒し、またペルディッカスの権力が強化されることに脅威を感じ始め、僚将のクラテロスやプトレマイオスと共に、ペルディッカスとの対決姿勢を明確に現し始めた。

紀元前321年、ペルディッカスはアンティパトロス派のうちプトレマイオスの打倒を目指し、両王を奉じてエジプトに遠征を開始した。一方で小アジア遠征に協力して以降友好関係にあったエウメネスには警戒を呼びかけた。対するアンティパトロスは軍勢を二分し自身の軍はエジプトへ赴き、クラテロスの軍勢は小アジアへ送ってエウメネスを攻撃させた。エジプトへ進撃したペルディッカスだったが、ナイル川で足止めされた結果麾下の軍勢から一斉に不満が噴出し、将軍セレウコスらによって暗殺されてしまう。皮肉なことにこの二日後、小アジアではエウメネスがクラテロスに勝利することになる。

最高権力者ペルディッカスが死んだため、今後のマケドニアの体制を決定するための会議がシリアの都市トリパラディソスで再度開かれた。会議ではアンティパトロス主導のもとで地位と太守領の再編が行われ、同時にエウメネスを始めとするペルディッカス派はマケドニア王国の敵として討伐が決定され、その任には軍の最高司令官に任命されたアンティゴノスがあたった。
第二次ディアドコイ戦争(紀元前319年-紀元前315年)
アンティゴノスとエウメネスの戦い

アンティゴノスはエウメネスをオルキュニアの戦いで破った後ノラに包囲し、次いで紀元前319年クレトポリスの戦いでペルディッカスの弟アルケタスを破って自殺に追い込んだ。しかし直後にアンティパトロスが病没したことで事態は一変する。アンティパトロスは息子のカッサンドロスがいまだ若年であるという理由から、マケドニア王の後見人役をクラテロスの副官だったポリュペルコンに譲ったが、これに不満をもつカッサンドロスがアンティゴノスらと共にポリュペルコンと相対する姿勢を見せた。劣勢に立たされたポリュペルコンはその打開のためにエウメネスを支援し、包囲を抜け出したエウメネスはメソポタミア地方で軍を再編し、紀元前317年パラエタケネの戦いにてアンティゴノスとの決戦に及んだが双方引き分けに終わった。翌紀元前316年ガビエネの戦いでエウメネスは敗れたが、敗北自体はそう致命的ではなかった。しかし、味方の裏切りによって彼はアンティゴノスに引き渡され、処刑された(あるいはアンティゴノスはかつての友であり、優れた将才を見せたエウメネスを殺すに忍びないとして餓死させようとしたが、部下が喉をかき切って殺したとも)。エウメネスに勝利したことで彼の遺領や配下の太守たちを配下に加えたアンティゴノスは小アジアから東方にかけての広大な地域を制圧し、さらに裏切りの兆候を示したメディア太守ペイトンを素早く滅ぼし、名声・実力ともディアドコイの中で突出した存在になっていった。
マケドニア王家の凋落

大王の家族は、ペルディッカスの死後アンティパトロスによってマケドニア本国に戻されていた。そのアンティパトロスの死後ポリュペルコンとカッサンドロスが対立したことは前述の通りだが、紀元前317年にポリュペルコンがペロポネソス半島へと遠征した留守にフィリッポス3世の妻エウリュディケ2世がクーデタを起こしカッサンドロスと結んだ。これに対してポリュペルコンに同行していたオリュンピアスがマケドニアに戻り、クーデタを鎮めフィリッポス3世とエウリュディケ、及びその與党を粛清した。しかしポリュペルコン派を破ったカッサンドロスがペロポネソスから戻るとオリュンピアスは孤立し、翌紀元前316年にカッサンドロスに降伏、処刑された。これによって大王の子アレクサンドロス4世はその母ロクサネと共にカッサンドロスの保護下に入ることになった。
第三次ディアドコイ戦争(紀元前314年-紀元前311年)
アンティゴノスの台頭

小アジアからシリア・メソポタミア北部にかけてを支配したアンティゴノスだったが、その勢力があまりに強大であったために他のディアドコイとの対立が激化した。紀元前315年、バビロンのセレウコスがアンティゴノスを恐れてエジプトに逃れたことから事態は表面化し、アンティゴノスはギリシアに渡るための船を得るためにシリアに進攻した。これによりプトレマイオスとの戦端が開かれ、翌年にはカッサンドロスの支配するギリシアに上陸しエーゲ海の諸島とペロポネソス半島の大半を制した。一方プトレマイオスはシリアに進攻、ガザでアンティゴノスの息子デメトリオスの軍を破った(ガザの戦い)。この報を受けてアンティゴノスはギリシアからシリアに移動しプトレマイオスと対峙した。
バビロニア戦争(紀元前311年-紀元前309年)詳細は「バビロニア戦争」を参照

プトレマイオスの支援を受けたセレウコスがバビロンに復帰したため、アンティゴノスはセレウコス以外のディアドコイと講和しセレウコスを攻撃した(バビロニア戦争)。しかし、セレウコスはアンティゴノス側のニカノルティグリス河畔で奇襲し大勝するなど、アンティゴノスのバビロン攻撃を頓挫させた。
マケドニア王家の断絶

マケドニア王家を掌握したカッサンドロスは大王の妹テッサロニケと結婚していたが、紀元前310年にロクサネとアレクサンドロス4世を暗殺した。いずれもマケドニア王位を狙っていたためと言われている。また零落していたポリュペルコンがアンティゴノスの支援を受けて大王の庶子ヘラクレスと共にマケドニア入りを目指していたが、カッサンドロスはポリュペルコンに賄賂を贈りつつ説き伏せ、ヘラクレスとその母を殺させた。これによって大王直系の有力後継者が死亡しただけでなく、王位継承権を持つのはカッサンドロスのみという状況になった。
第四次ディアドコイ戦争(紀元前308年-紀元前301年)
アンティゴノスの滅亡

アンティゴノスがセレウコスと対峙する間にプトレマイオスはキプロス島からキリキア(小アジア南部)、さらにはギリシアへと進出した。プトレマイオスの勢力の伸張に対してアンティゴノスはデメトリオスをギリシアに送り込み、その軍は紀元前306年サラミス海戦(キプロス沖、ペルシア戦争中のものとは場所が異なる)でプトレマイオスを破った。この敗戦でプトレマイオスはエジプトに撤退した。勝報を受けたアンティゴノスは自身をマケドニア王であると宣言し、またデメトリオスを共同統治者とした。さらにアンティゴノスはエジプトを攻撃したがこれは失敗し、プトレマイオスは翌年王位に就くことを宣言した。カッサンドロス、セレウコス、リュシマコスもそれに倣って王を称した。

その後ロードス包囲戦の後デメトリオスがギリシアでカッサンドロスに対して優勢に戦いを進め、紀元前302年にはアンティゴノスは自身を盟主とするヘラス同盟をギリシアで結成した。追い詰められたカッサンドロスは講和を求めたが、無条件降伏を求められたためにプトレマイオスやトラキアのリュシマコス、さらにセレウコスらに対アンティゴノスの戦いを呼びかけた。紀元前301年、アンティゴノスとデメトリオスはフリュギアのイプソスでセレウコスとリュシマコスの連合軍と対戦したが、この戦いでアンティゴノスは戦死し、デメトリオスも敗走するなど大敗を喫した(イプソスの戦い)。

これによってアンティゴノスの王国は勝者たちによって分割され、シリアバビロニアイラン高原、小アジア東部を支配するセレウコス朝、キプロス、エジプトを支配するプトレマイオス朝、マケドニア本国を支配するアンティパトロス朝(en)、トラキアと小アジア西部を支配するリュシマコス朝(en)が成立した。セレウコスやプトレマイオスの王朝に比してマケドニアのカッサンドロスの王朝は長続きせず、カッサンドロスの死後の王位継承争いに乗じてマケドニアに返り咲いたデメトリオスが王位を奪い、さらにデメトリオスがリュシマコスと新たにディアドコイ戦争に参戦する形となったエピロス王ピュロスに追放されるなど混乱が続くことになる(最終的にデメトリオスの息子アンティゴノス2世によるアンティゴノス朝紀元前276年にマケドニアに支配権を確立した)。
その後の戦い

ディアドコイ戦争最後の戦いは紀元前281年コルペディオンの戦いである。この戦いでセレウコスはリュシマコスを敗死させ、プトレマイオス朝の支配するエジプトを除くアレクサンドロス帝国の大部分を勢力下に置くまでとなった。しかし、この戦いからすぐにセレウコスはプトレマイオスの子ケラウノスに暗殺された。これにより、ディアドコイの第一世代は死に絶え、戦争は一つの区切りを迎えたと言える。とはいえ、諸国の戦いが全く終わったといえばそうではなく、マケドニアでピュロスとアンティゴノス2世がマケドニア王位をかけて戦ったり、プトレマイオス朝とセレウコス朝が南部シリアを奪い合ったり、紀元前261年クレモニデス戦争でアンティゴノス朝とプトレマイオス朝が戦ったようにディアドコイの子孫たちはローマに吸収されるまで戦争を続けた。
関連作品
ボードゲーム


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